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2日目の四国山行の報告をします。
短くするつもりでしたが、
コアラの好きな鉱山の話をいっぱい書いてしまったので、
これまた、大作になってしまいました。
◎筏津山荘
夕方7時過ぎに着いたので、山奥の村でもあり、周りは真っ暗であった。
筏津山荘の明かりが対岸に見え、その上の方では、
とっても洒落たレストランのような明かりが闇の中に輝いていた。
これが筏津キャビン(コテージの様なもの)かなと思い、
キャビン泊にした方がゴージャズかなと思ってしまった。
翌朝散歩してみたら、その明かりは、開放型のバーベキューハウスであった。
夜だったので、洒落たレストランかコテージかと思ってしまった。
山の斜面にいくつかのキャビンが張り付いていた。
外見はそれほど綺麗といった感じでもなかったが、
泊まってみるとなかなか良いものかも知れない。
筏津山荘はとキャビンは、別子銅山(住友金属)の社宅跡の敷地に立っている。
山荘のおやじ(朴訥なおやじだがいい味を出している)に聞いてみると、
山の本に書いてある社宅の再利用というのは間違いで、新しく再建したらしい。
建物の裏には、昔の抗口が残っている。
ここの敷地は社宅跡といよりは、抗口から作業を終えて出てきた鉱山夫が、
お風呂に入ったり、休んだりした休憩施設だったそうである。
コアラは、地理院で働く前、鉱山関係の仕事をしていたので、
こういうものには懐かしさも働いて、とっても興味深い。
筏津山荘は村営の施設なので、料金は1泊2食で6300円と結構安かった。
風呂は1つしかなかったので交代で入ったが、
ちょっと小さく一人でいっぱいという感じ。
それでも、石鎚山に登って疲れた体をほぐすには充分で、心地よかった。
夕食もそれほどいっぱいというわけでもないが、
川魚や山菜など、山の幸が豊富で、美味しい食事であった。
本来筏津山荘は月曜が休みなので、日曜の夜は宿泊客は取らないらしいが、
今回は特別取ってくれて、我々以外には客は1組だけであった。
というわけで、夏休み期間であるにもかかわらずガラガラだったので、
それぞれ一人ずつ部屋を用意してもらえた。
かくして、たけちゃんの貞操は守られたのであった。
◎東赤石山
12日は、二百名山で花の百名山でもある東赤石山に、
南側の別子山村の筏津から登りました。
標高差1000mの結構ハードなコースで、周回コースにしました。
石鎚山と比べると登山道は整備されておらず、
平日だった事もあり、我々以外のパーティはほとんどなし。
赤石山荘のおじさんと、帰りの沢(瀬場谷分岐)で会った単独行の男性のみ。
●コースタイム
筏津8:40−瀬場谷分岐9:25〜30−徒渉点10:15〜20
−徒渉点10:45〜50−赤石山荘11:20〜30−(雨宿り)
−分岐12:00〜15(昼食)−赤石越12:25
−東赤石山山頂12:35〜13:00−赤石越13:10−分岐13:30
−徒渉点14:05〜10−瀬場谷分岐14:45〜55−筏津15:35
●登り(瀬場谷)
沢沿いのコースで、地図にないようなものすごい滝が連続していました。
さすがに中央構造線以南は本当に険しい山地です。
沢沿いとはいっても、沢からは結構高いところを登山道が設置されており、
かなり下の方で渓流や滝の爆音が聞こえる感じ。
かなり下の方に渓流があっても、滝の落差がものすごいので、
滝を超えると登山道と渓流との標高差が小さくなり、
その様なところで、徒渉するようになっています。
沢沿いの樹林帯の中の道なので、
直射日光が当たって大変ということはないですが、
かなりの急坂の連続で大変汗をかくので、徒渉の度に沢水で顔を洗って気分転換。
瀬場谷分岐の徒渉点から、行きと帰りの道が分かれるのですが、ここは橋で通過。
しかしこの橋がすごく揺れるので、コアラは気持ち悪いやら、怖いやら。
バランスを崩して、川に落ちるかと思ってしまいました。
たけちゃんの分析では、昨日の石鎚山の鎖場での揺れといい、
コアラは揺れに弱い(苦手)なのではとのこと。
最後の徒渉点を過ぎてからまた急坂を上がり、
木々の高さも低くなって、上空が開ける感じになる。
沢も水が無くなり、涸れ沢になった状態の斜面を上がっていって、
赤石山荘のある緩斜面(平坦地)に出る。
ここが高山植物に埋め尽くされた別世界である。
●赤石山荘付近のお花畑
赤石山荘周辺はお花畑になっているのですが、やあ最盛期は過ぎた感じ。
たけちゃんにとっては、北アのお花畑の方が断然良いみたい。
東赤石山は橄欖岩が露出しており、そのため固有種が多い。
花の百名山の対象であるオトメシャジンは、ここだけに見られる固有種。
今回の山行では、お目当てのオトメシャジンの華麗な姿を見れて、一応満足。
赤石山荘でちょっと休んでいると、遠くで雷鳴がする。
空をみると雲の動きが激しく、どうやらにわか雨がありそうである。
山頂まで行くかどうか悩んだが、
ここで待っていても仕方がないので先に進むことにした。
(結果としては、山小屋で雷雨が過ぎるのを待った方が正解だったのだが)
本来は、小屋のところから岩稜の斜面を八巻山に上がり、
岩稜の稜線上に高山植物が咲きほこっているらしいので、
ここを縦走して東赤石山頂を目指す予定であった。
しかし岩稜地帯で雷雨に出会っては命の危険があるので、
そこの縦走は諦め、東赤石山の直下までお花畑の周回路を行くことにした。
ここの周回路も、結構オトメシャジンが咲いており、綺麗であった。
予想に反して雷雨の動きが早く、お花畑の周回路を歩いている途中で雷雨に会い、
急遽森の中で、雨具を着て雨宿り。山小屋で待機していれば良かった。
そうすれば、山小屋のおやじとも語らいの時間を取れたかも知れない。
すごく激しい降雨量となり、森の中でも体やザックがビチョビチョに。
コアラはうっかりザックカバーを車に置き忘れてしまったので、
たけちゃんが特段濡れて困るものは無いからとザックカバーを貸してくれた。
サンキュー。しかし下山してから確認したが、
その際に、地図や花の本とかがびしょ濡れに。ガッカリ!
特に今回は、地図も花の本も現場では全く開かなかったので、
地図はともかく、本は持って上がらなければ良かったと、後悔した。
●東赤石山山頂往復
しばらくしたら雨足が小さくなり、雷鳴も遠くなっていくのが分かった。
小降りになってから、森の中を飛び出し、周回路を進んだ。
山頂直下の分岐まで来て、雨も止んだので、
ピークハント可能かどうか様子を見るため、ここで昼食にした。
ここだと森が近くにあるので、また雷雨が来ても避難することが出来る。
食事を終えて様子を窺うと、雨も上がったようで次の雷雨もしばらく来ない。
東赤石の山頂はガスに覆われていたが、せっかくここまで来たのだし、
雷雨が去った合間を見計らって、ちょこっとピークハントすることに。
急な岩稜の斜面を登り、赤石越の稜線に。
ここからの稜線歩きは灌木に覆われており、山頂のみが岩峰が出ていた。
山頂でしばらく休むが、下界は雲に覆われ、全くの展望なし。
ここで記念写真を撮る。三角点を探したが見つからないので、
藪漕ぎしながら稜線をさらに進むと、5分ほどのところに三角点があった。
ここも山頂に負けず劣らずの好展望であったが、何せ今回はガスの中。
その間、たけちゃんは山頂で休んで待っていたが、その間に雲が少しは流れて、
八巻山に続く岩稜の稜線を見ることが出来た。これが今回唯一の展望。
天気は回復傾向にあったが(南の方は太陽が射してきていた)、
山頂のガスは晴れそうもなかったので、下山することに。
●下山
分岐まで戻り、周回路を先に進み、その先の分岐を下りる。
この道は瀬場谷の1つ東側の谷を下りる登山道である。
徒渉点までは、涸れた沢沿いの石のゴロゴロした急な斜面で、
少し疲れていたせいか、どうでも良いところで石に滑ったりした。
そのため慎重に下山した。
徒渉点から先は本当に沢沿いで、登山道の瀬場谷と似たような感じである。
こちらの谷も地図にないような大きな滝が連続する渓流で、水量も多い。
沢登りをする人などには、たまらないのではないだろうか?
(自分はやらないので良く分からないが、結構難易度は高いのかも知れない。)
瀬場谷分岐に着いてからは、来た道を引き返すことになる。
ここで今日唯一の登山者とすれ違った。
この時間に登るということは、今日は赤石山荘に泊まるのだろうか?
そういえば、山小屋のおやじが、結構綺麗に山小屋を掃除していた。
赤石山荘は山の本の写真とかでみると、汚そうな掘っ建て小屋であるが、
いざ中に入ってみると、結構小綺麗で居心地の良さそうな山小屋である。
でも、次回東赤石山に登ることは、ほとんど無さそうだな。
ここからは通った道だったので、コアラは結構快調に下りていったが、
たけちゃんは疲れがたまっていたのか、こういう下りが余り好きでないのか、
ちょっとコアラとの差が開いてきた。
下りの方は思ったより時間がかかったが、
これでも無事登山口の筏津に下山出来た。
◎別子銅山跡
筏津山荘に止めてあるマイカーに戻って、
汗でビショビショになった服を着替えた。
そして車で帰路についたが、途中西赤石山の登山口で止まった。
西赤石山の南側の登山口は、別子鉱山跡を通る歴史の道でもある。
山の本を読むと、稜線の銅山越に出るまでの約1時間半の山道に、
銅山を訪れた要人の宿泊、接待に使われた接待館、
小学校跡、千人以上収容した劇場跡、
銅山の中心街として栄えた目出度町、
殉難者をまつる蘭塔場、歓喜抗、歓東抗などの抗口などが遺跡として残っている。
筏津山荘のおやじに聞いたところ、別子銅山は昭和40年代に閉山になったが、
最後まで操業していたのは、鉱脈の発達具合の関係で、
後半に開発された新居浜側(東平)で、
江戸時代の頃から開発されてきた別子村側(目出度町)は、
大正年間に閉山になっている。
従って、西赤石山登山道沿いの別子銅山遺跡は大正年間のもので、
現在では建物等は全く残っておらず、土台の石積みが残っているだけだとか。
今回、早めに下山出来たら、別子銅山遺跡の散策も行いたかったが、
時間もなかったし、体力も使い果たした気があったので、
今回は登山口で案内図を眺めて、昔の歴史を感慨深く見るに留めた。
江戸時代には別子銅山には2万人の集落が有ったそうである。
今の別子山村の人口は約400人。四国で最も人口の少ない村だそうである。
「なつくさや つわものどもが ゆめのあと」である。
◎マイントピア別子
新居浜側の鉱山跡地は、跡地を積極的に活用した観光施設がある。
マイントピア別子はがそれで、温泉付きの道の駅である。
登山後の疲れを癒すと共に、一汗流そうと立ち寄った。
ここは鉱山最後の採鉱本部が置かれていたところで、
昔ながらの建物をモチーフにしたレンガ造りの施設が建設されている。
水力発電施設とかは、その当時の建物がそのまま残されており、
歴史的建造物として取り扱われているようである。
温泉施設は、打たせ湯、ジャグジー、露天風呂、サウナなど、
色々な種類のお風呂があり、スーパー銭湯的に楽しめる。
風呂からあがった後は、山登りで大変お腹が空いたのか、
軽食コーナで夕食を取って、帰路に向かった。
ここの道の駅は、単に道の駅だけでなく、昔の坑道を活用した観光坑道があり、
トロッコ列車に乗って観光出来るようになっている。
今回時間が余り無かったのと、本来の目的は山だったので、
観光坑道には入らなかったが、本来色々なものを見たいタチなので、
観光好きのコアラは風呂に入る前に、観光坑道も見学してみたかった。
たけちゃん、もしコアラが観光坑道見ようと言ったら、行く気有りました?
◎帰路
新居浜ICから高速に乗り、今治へ。
ちょっと温泉でのんびりしていたので、予定のフェリーには間に合わず。
次のフェリーまでは1時間弱あったので、
来る途中で山の上にライトアップされた城が見えたので、そこに行くことに。
しかしながら、想定される山には車で上がったのですが、城は見つけられず。
夜景だけ見て、時間切れでフェリー乗り場に戻りました。
8時台のフェリーに乗り、竹原着は10時少し前。
たけちゃんを、その日に泊まる宿の前で下ろして、ここでお別れ。
自分は河内ICから高速に乗り、広島に戻りました。自宅着は11時前でした。
たけちゃんには、せっかく遠くから来て頂いたのに、
天気や展望に恵まれず、すいませんでした。
コアラ的には、久しぶりの本格山行で、たけちゃんと山を楽しめたし、
念願の東赤石山の登山と
花の百名山の対象種である固有種のオトメシャジンを見る事が出来、
石鎚山の鎖場のリベンジも出来たので、それなりに満足しました。
願わくは、別子銅山関係の施設を見たかった。
今度行くチャンスはしばらく無いでしょうが、
もしあったら、今度は銅山を巡る山行にしてみようかと思っています。