飯沢耕太郎氏 証人調書
1994年5月20日の第6回口頭弁論には写真評論家の飯沢耕太郎氏に証人として出廷していただいた。法廷には大勢の飯沢ファンが詰めかけ,当時,NHK人間大学講師をされていた飯沢氏の公開講義という雰囲気であった。
速記録
平成6年5月20日 第6回口頭弁論
−(原告代理人)証人の経歴を簡単に述べてください。
私は、1973年に、日本大学芸術学部写真学科に入学しまして、写真の勉強を致しました。その後、1977年に筑波大学大学院芸術学研究科に進みました。そこでは、写真を撮影するほうではなくて、主に写真の歴史を研究する写真史という分野で研究活動を行いました。1984年、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程を終了致しまして、学術博士号を取りました。テーマは、日本の近代写真取り分け明治・大正・昭和初期における芸術写真と言われる分野についての研究です。その後、写真について、評論活動あるいは批評活動あるいは展覧会とかそういうものに対する紹介等の活動を続けておりまして、約10年間ほどその活動に従事しております。
−そうすると、現在の職業は、写真の評論とかということですか。
−最近何かされていることで、大学間係とかありますか。
はい、東京総合写真専門学校という所で、講師を務めております。それから4月から6月に掛けて、NHK教育テレビの人間大学という講座があるんですけれども、木曜日の11時から30分ほど、その番組の講師を務めております。
−(甲第16号証を示す)これは、ある書籍のコピーなんですが、最後を見ますと、「写真とフェテイシズム」というタイトルのものですが、これは、証人が書かれたものですか。
はい、そうです。1992年に出版したものですけれども、私は、このほかに約10冊ほど本を書いておりまして、写真の歴史の本が多いんですけれども、この「写真とフェティシズム」の中では、本件のテーマになっておりますロバート・メイプルソープ(以下メイプルソープという)についても論じております。
−今回のこの裁判では、税関で輪入禁制品に該当するということで、メイプルソープの写真が問題となっておるんですけれども、その写真による表現ということと、性表現ということの関係について、簡単にどのように考えられるのかということについてご説明いただきたいんですが。
大変難しい問題なんですけれども、写真は発明されてから150年ほどの歴史があります。1839年に最初の実用的な写真機が発明されたわけですが、その時から、写真と性の表現あるいは肉体の表現というのは、非常に密接な関係を持っていたというふうに考えております。なぜならば、写真というのは、現実の世界を非常に詳細に正碓に写し取る技術でありまして、肉体を表現するということは、これは、それ以前から、総画・彫刻等でずっと取り上げられてきたテーマなんですけれども、写真におけるそれを表現する場合には、どうしても、その肉体をあからさまにというか、肉体の詳細な部分までも正碓に写し取ってしまうということが、言ってみれば写真表現の宿命的のようなものとして負わされているわけです。ということで、写真の表現と肉体の表現あるいは性表現、つまり、人間の隠された部分を表現するという行為というものは、どうしても密接に結び付かざるを得ないと考えます。
−それで、この写真による性表現ということなんですが、これとわいせつと一般的に言われているものとの関係、これについては、どう考えられるんでしょうか。
肉体の表現ということについて、もう少し述べさせていただきますと、従来から肉体を美しい肉体、理想的な肉体を表現するという意味で、ヌードというふうなジャンルというものが、総画・彫刻ではずっと続いているわけです。イギリスの美術史家にケネスクラークという方がおりますけれども、彼は、そういう裸体、肉体の表現というものを2つに分けて考えておりまして、ヌード、それは、理想的な人体のプロポーション等を表現するような、そういうふうなあり方、それから、もう1つは、ネイキッドというふうな言葉を使ってるんですけれども、それは、端的に裸にされた状態というものを表現する、衣服を脱ぎ捨てた状態というか、ういう生々しい人間の有り様を表現する、それをネイキッドという言葉で表してます。
写真の場合には、どうしても、ヌード理想的な人体を表現するというよりは、そういったネイキッド的な表現に近いものが、非常に多くなると。その場合に、殊更わいせつを目的とするものでないにもかかわらず、社会の中で、つい、わいせつというふうな形で呼ばれてしまうようなことが起こりがちであるメディアであることは間違いない、というふうに思います。
−今言われたネイキッドというのは、英語でNAKEDですか。
はい、そうです。衣服をはぎ取られた状態というものを示す言葉というふうに考えられております。
−まあ抽象的に聞いてもあれなんですが、わいせつというものを国家が取り締まるということが、現在日本では行われているわけですが、そういうわいせつを規制するということについては、その写真の表現という観点からどう考えられるでしょうか。
写真の表現というのは、その人間の存在の根源というのを明るみにさらすという行為ですので、非常に誤解を招きやすい所もありますし、国家あるいは警察等の規制の対象になることが、これまでも度々あったわけです。私の考えとしては、わいせつという観念自体は存在するだろうと。それは、たとえば、性器とか性行為等を見て、非常に恥ずかしいと思う。で、これは、見てはいけないものだというふうに思う。そういった考えというのは、人間の中に自然に沸き上がってくるものだと思います。但し、それを国あるいは警察が1律に規制するということに関しては、中々微妙な問題があると思うわけです。というのは、わいせつという観念は、時代に従って非常に変わってくるもので、たとえば、19世妃のビクトリア朝のイギリスの人というのは、いすとかテーブルの足に下着をはかせてしまったと、それは、そういったものが裸の状態にあるということは、彼らにとってはわいせつなものだというふうに考えてしまうというふうな、一見笑い話のようなそんな話が残っているぐらいで、今、誰もそのいすとかテーブルの足を見ても、わいせつとは感じないわけなので、その社会通念の変化というのは、常にあると思います。ですから、それを一律に規制するということは、非常に難しいであろうと。なおかつ、わいせつという観念は、個人個人の頭の中に沸き上がってくるものでありますから、その頭の中のことを外から判断するということは大変難しいし、もし、それを判断したとすれば、それは、個人の思想あるいは想像力を規制するということになって、わいせつという観念はあるにしても、それを権力が一律に規制するということは、これは非常に難しいし、僕自身は、やるべきではないのではないかというふうに考えます。
−それから、我が国においては、性器とかヘアが写っているということをもつて、わいせつというふうに考える考え方があるんですけれども、このような考え方については、どのように考えられますでしょうか。
そのヘアという言葉自体は、私はあまり好きではなくて、ヘアというのは、いわゆる髪の毛も含めた毛一般を総称する英語だと思うんですけれども、日本の場合には、そのヘア問題とかヘアヌードとかいう場合には、これは、端的に女性の性器の回りに生えている陰毛のことを指すわけです・それをヘアというふうに婉曲に言われているわけなんですけれども、仮に、それを陰毛というふうに解釈致しますと、そういうふうな性器あるいは陰毛というふうな体の一部分だけを取り上げて、それをわいせつだというふうに言う考え方というのは、これは、どう考えてみてもおかしいのではないかと、わいせつというのは、先程から言っているようにその写真に写っているもの全体を見て、それを頭の中で想像力の中で判断して、その人、一人一人が決めることですから、たとえば、そのヘアなるものを見て、わいせつと感じる人もいれば、感じない人もいると、そういうことから考えてみると、その体の1部だけ取り上げて、わいせつうんぬんというふうな議論を展開すること自体、ナンセンスだというふうに思います。
−現在、この日本において、この数年前からの傾向だと思うんですが、いわゆるヘアヌード写真集というか、証人が言うところの陰毛が写った写真集が大量に出版されるようになったんですが、これは、厳格に言うと、いつからそういうことになったんでしょうか。
これは、厳格に言うと、いつ私が考えるところでは、大体1991年ぐらいからだと思います。というのは、その年に篠山紀信という非常に有名な写真家の方が、何人かの有名女優、樋口可南子とか宮沢りえとかいう人達のヌード写真集を出しまして、これが、出版界始まって以来というふうな大変な売上を記録しました。一説によると、150万部ということなんですけれども、そういったことを切っ掛けとして、マスコミの中でヘアヌードないしヘア写真という言葉が、一般的に流通するようになったんではないかというふうに考えます。
−現在、そういうヘアヌード写真集と言われるものが一般的に出回っていると、こういう現状については、証人は、どのようにお考えでしょうか。
私自体は、その裸体あるいはヌードの表現というものに関して、規制はなくすべきだと考えておりますんで、そういった写真集が売られるようになって、誰でも買えるようになった状態というものを一概に否定するわけではありません。但し、そのマスコミを含めた我々社会の全般の物の見方というのが、ヘアというふうな非常にその局部的な現象に限定されてしまうと、逆にそのことによって写真は、本来表現のメディアとしてなすべき肉体とは何か人間とは何かといった、あるいは性とは何かエロスとは何かといった、非常に本質的な問題が、逆になおざりになる可犠牲があるんではないかという意味で、多少危惧を持っておるわけです。但し、こういったものに関して言えば、いろんなものがいろんな形で自由に出てくる中で、質が逆に問われてくるだろうと、そういう意味で、これから先は、裸体あるいはヌードの表現においても、それほど質のよくない劣悪なものと非常に質の高いものとが区別されてきて、質の高いものは、芸術表現の歴史の中に残り続けていくだろうと、そういうふうに考えます。
−それでは、メイプルソープのことについて伺いますが、(甲第25号証を示す)220ページを見てください。それは、メイプルソープの年表というか、それを見ながら、証人の立場で、メイプルソープとはどういう人なのかということについて、簡単に説明をしてください。
メイプルソープは、アメリカ出身の写真家で、1946年に生まれ1989年に亡くなっております。私は、いろんな写真家の業績について研究したり文章を書いたりしているわけですけれども、彼については、以前から、非常に関心を持ち続けてきた写真家の一人です。実際にいくつかの文章を書いているわけです。1970年代から80年代にかけての写真表現の歴史の上で、きわめて重要な仕事をした写真家であるというふうに考えます。それは、アメリカ、ヨーロッパ、日本というふうな地域的に限定されるものではなくて、世界的に見て、非常に重要な仕事をした写真家ではないかというふうに思います。何が重要かというと、彼の場合には、テーマとなったものが、肉体・性・裸体といった、やはり人間の存在の根源にかかわる事象を、非常に突き詰めて表現として展開していった人だという点で、非常に関心を持ち続け、重要な写真家だというふうに考えております。
−メイプルソープが、特に活動していた時期は、何年から何年ぐらいでしょうか。
メイプルソープは、元々は、いわゆる現代美術の世界から写真の世界へ入ってきた人で、最初の頃の仕事を見てみますと、ポップアートという60年代非常に流行したというか、力を持った芸術連動の影響を受けつつ、自分のスタイルを碓立するわけですけれども、1970年代以降、写真を主要なメディアとして使うようになったわけです。その中で、彼はいろんな形でいろんな被写体を取るわけですけれども、その重要な被写体として裸体を取り上げていくわけです。特に彼は、自分の傾向としてホモセクシャルな人なので、男性の裸体に対しては、自分の嗜好性も含めた形で非常に関心を持ち続け、それを大変大きなテーマとして取り上げてきました。その場合写真の特性として、あらかじめ、そこに存在しているものをぎりぎりの形で表現していくということがあるわけなので、かえって、それを隠していったり、あるいは一部分を修正したり、ぼかしていったりというような、そういった表現は全く取らないで、そこにありのままの裸体の形というのをストレートに表現していくわけです。しかも、‥彼は非常に高度な美意識の持ち主で、メイプルソープを19世妃の彫刻家ロダンと比較するような文章を私読んだことがありますけれども、確かに彼の写真の作品というものは、ロダンの彫刻の作品を思わせるような、空間の中にぎりぎりまでそのフォルムというのを美しい形で定着していくわけです。但し、そのテーマとなっているものが、黒人の裸体だということで、非常にショッキングな効果を及ぼすと。私は、芸術というものの一つの大きな力というものは、人間の感情を非常に大きく揺さぶっていくと、それによって人間の物の見方を変えていくことだというふうに思いますけれども、そこに黒人の裸体が写っていることによって、いろんな意味で、それが、見る人にショックを与えると、そういう強烈な効果を十分に駆使しつつ、彼の世界を作っていった写真家ではないかというふうに思います。
−そうすると、メイプルソープという人は、写真家としてそのような位置付けが出来るということですか。
はい、写真家としても非常に一流の位置付けをしていいと思いますし、その証拠として、彼の生前あるいは死後に、全世界で写真の展覧会が開かれ、多くの観客を集めていると、あるいは写真集は、沢山発行され、それも多くの読者を得ている。それも一つの間接的な証拠になると思いますけれども、もう少し広い見方をすれば、1980年代以降の現代美術の中に、写真を使った現代美術の分野というのが、非常に勢力を持ってくるんですけれども、その中においても第一人者の地位を得ている人だというふうに考えます。
−日本でも展覧会が開かれたことがありますか。
はい、彼の死後に展覧会が開かれております。一番最初は、東京都庭園美術館だったと思いますけれども・・・。
−(甲第25証を示す)これが、日本で展覧会をした時の写真のカタログですか。
−2枚目に、美術館の名前が書いてありますね。
はい、1992年6月2日から7月2日に掛けて、東京都庭園美術館、これは、東京都文化振興会という所が経営している公立の美術館ですけれども、そこを皮切りにして、水戸芸術館現代美術ギャラリーそれから神奈川県立近代美術館、名古屋市美術館、滋賀県立美術館というふうな形で巡回されています。
−これは、かなり好評だったんでしょうか。
美術館によっては、美術館始まって以来の観客を動員したというふうな話も聞いております。
−この5つの美術館は、いずれも公立の美術館ですか。
−メイプルソープの写真の特徴について先程説明があったんですけれども、特にその写真の中でも特徴的な分野というのは、どのような写真だということですか。
やはり裸体表現、とりわけ黒人あるいは女性ボディビルダー等も含めた形の、やや一般的な裸体とは少しかけ離れた、一般的な裸体の範ちゅうを越えた神に近いというか、そういった裸体を扱うことが多いというふうに思いますけれども・・・∴
−いわゆるSM的な写真もあるでしょうか。
はい、つまり、彼は、人間の一般的な性というものを、その一般的な性の範囲にとどめるのではなくて、もっと広がりを持った形で考えていた人ではないかというふうに思うわけです。つまり自分自身が、その性というものの広がりがどれだけあるかということを、自分自身、身をもって確かめるというふうな、そういうふうな指向性が、彼自身の中には強くあったんではないかというふうに思いますですから、‥彼の写真を見ていると、先程のお話に出たSM、つまりサディズム、マゾヒズム的な写真があるんですけれども、これは、1時、彼はその世界の中にかなりのめり込んで、で、そこから自分自身の見た現実をつかみ取るという形で、写真表現として展開した時期があります。それは、1970年代の終わりから1980年代の初めぐらいだというふうに考えます。
−そのようなメイプルソープの写真について、証人が一時編集長をされていたデジャブという雑誌で取り上げたことがありますか。
あります。デジャブは季刊の写真雑誌で、私が非常に関心を持っている高度な写真表現というものを印刷あるいはレイアウトに気を配って刊行していた雑誌なんですけれども・・・。
−(甲第23号証を示す)これで。1992年10月発行のもので、デジャブの第10号に当たります。これで特集をしたということですか。
−表紙を見ると、ロバート・メイプルソープということで、タイトルがあるんですが、ここに掲載したのは、主として先程言われたようにSM的な写真が多いようですね。
彼の代表作というふうに私は考えるんですけれども、エクッスポートフォリオというふうな、ポートフォリオというのは、写真のシリーズを一まとめにしてそういうふうに呼んでいるんですけれども、その代表作の中から何点か掲載しました。
−そのデジャブの中に、本件で問題になっている写真が掲載されているようなんですが、27ページ、完璧主義者のうんぬんという所の前の写真を見ますと、これは、本件の写真集に掲載されている写真なんですが・・・。
これは、メイプルソープのある意味で代表作といっていいと思うんですけれども、先程、言い忘れたましたが、裸体の中に非常に重要なジャンルとして、セルフポートレートがあります。セルフポートレートというのは、いわゆる自画像、写真の場合だったら自写像とでも言いましょうか、自分自身を撮影するものなのですけれども、彼は、やはり自分自身は何者なのかというふうな好奇心と、非常にそれを究めたいという欲求に取り付かれた人だというふうに思います。これは、非常に生々しいいわゆるアヌスにむちを突っ込んでいるというふうな感じの写真なんですけれども、ここら辺りにも彼の性的なものを究めていきたいというふうな欲求が端的に表れている写真だというふうに思うんですけれども、確かに非常にショッキングな写真ではありますけれども、そのショックから、我々は我々自身のことあるいは人間の存在というものを自問自答えせざるを得ないと、そういうふうな気持ちを起こさせるような、やはり強い写真ではないかというふうに思います。で、これは、何枚かメイプルソープの写真を私自身見ているんですけれども、この写真は、ぜひ掲載したいなというふうに思って掲載致しました。それは、この写真は、言ってみればメイプルソープの生涯を象徴している重要なイメージではないかというふうに考えられます。
−先程、証人は、ヌードとネイキッドという区別に触れられておったんですけれども、このメイプルソープの写真というのは、ヌードとネイキッドということで分けると、どちらかに分けられるようなものなんでしょうか。
これは、非常に難しい問題をはらんでいると思います。というのは、メイプルソープ自体は、非常に高度な美意職の持ち主で、裸体のフォルムを厳密に画面め中に定着するという意味では、ヌードを極限まで追求していった写真家なわけです。ある意味で、これまで芸術家たちがいろんな形でヌード表現をしていったものを、彼なりに総合的にまとめ上げようというか、更にそれを越えて、もう一つ高みに持っていこうとしたという、そういう欲求に取り付かれていました。にもかかわらず、彼の作品というものは、写真本来の特性であるネイキッドな部分というものをはらまざるを得なかった、つまりぎりぎりまでフォルムを追求しようとしても、そこに写っているものは、裸にされた裸体の状態というものを、いやおうなしに写し取ってしまうわけで、言ってみれば、彼の作品というものは、ヌードとネイキッドを総合的に複合させていった、あるいはヌードとネイキッドが非常に緊張感をはらんでせめぎ合ってるというか、そういう意味で非常に独特の表現なわけです。こういうふうな形の表現をこれまでやっていった写真家、あるいはもっと広い意味で芸術家というものは、いなかったんではないかというふうに思います。
−そうしたら、これからは、裁判で問題になっている写真集のことをお伺い致しますが、(甲第6号証を示す) この写真集は、どういう写真集か説明していただけますか。
この写真集は、1988年アメリカのホイットニー美術館という現代美術を主に扱っている、これは世界的に非常に評価の高い美術館ですけれども、そこで開かれたメイプルソープの大回顧展のカタログとして刊行された写真集です。
−この写真集は、メイプルソープの業績の中では、どのような位置付けが出来る写真集でしょうか。
メイプルソープの写真集はいろいろあるわけですけれども、彼のその仕事の全体像というものを外観するという意味では、大変貴重でなおかつ便利な写真集でして、私自身も文章を書く時に何度か引用させていただいたし、参考にさせていただきました。なおこのホイットニー美術館の展覧会というのは、メイプルソープが1989年にエイズで亡くなるわけですけれども、その最後の時に当たる段階で、メイプルソープ自身もエイズで病み衰えた体を車いすのまま、この展覧会のオープニングに出席した・というふうに聞いております。その写真を見たことあるんですけれども、非常に鬼気迫る彼自身の芸術家としての生涯、それを締めくくる重要な展覧会だと思っております。
−この写真集の中で、まず、甲6号証の19ページを見てください。この写真について、説明していただけますか。
これは、1971年、つまりメイプルソープが、写真という媒体を自分の表現手段として使おうとし始めた、最も初期に作られた美術の用語で言うとコラージュと言われるような手法で作られた作品です。自分自身のセルフポートレート、あるいは、雑誌等から切り抜かれた男性の裸体というのを組み合わせて、一つの作品にしているわけです。こういった手法は、先程言ったポップアートも含めて、いろんな形で芸術家たちが使う手法ですけれども、全く異なったイメージを一つの画面の中に組み合わせることによって、一種の視覚的な効果を出していくと、ショックを与えていくというふうな、そういった意図で作られた初期の作品ではないかというふうに思います。
−次に、甲6号証の75ページを見てください。これについて説明してください
これについては、先程述べたとおりで、セルフポートレートを代表する1枚だというふうに思います。やはり、メイプルソープというアーチストの存在そのものを芸術行為に懸けているという、そういった気迫というか、それが伝わってくる、やはり鬼気迫る写真ではないかというふうに思います。
−続いて95ページを見てください。それについてコメントしていただきたいんですが。
ポリエステルの非常に安っぽいスーツを着た黒人の男性が写ってまして、これだけでは何の変哲もない体の一部を撮影した写真なんですけれども、問題は、股間から非常に巨大な男性器がぬうっと飛び出しているというふうなことで、こういったきちっとスーツを看た男性の姿と、その男性器というものが、鮮やかなコントラストを描いていまして、やはり、見る者に強烈なショックを与えるわけです。その男性器そのものにぐっと目が引き付けられてしまうというふうな、非常にそめ効果があると思うわけです。但し、これは性器そのものが写ってるんですが、これは、別に僕自身はわいせつだとは全く感じられません。なぜならば、その性器そのものというのは、一種のオブジェというか物として、そこに存在しているだけでありまして、これが、いわゆる恥ずかしさ、羞恥心等を呼び起こすというよりは、むしろ、ある種のこっけい感、ユーモラスな感じさえ、私自身は受けるわけです。ですから、わいせつに当たるというふうな感じでは、全く受け取らないわけで、メイプルソープという人は、非常に緻密な美意識の持ち主であるにもかかわらず、時々こういうふうなある種こっけい感を呼びさますような表現の仕方をすることによって自分の写真の表現の幅を広げている所がありまして、この写真等は、その典型ではないかというふうに思います。
−続いてこの113ページを見てください。この写真についてコメントをしていただきたいんですが。
これは、リサ・ライオンという非常に有名な女性のボディビルダーつまり、男性ではなくて女性が体を鍛えて筋肉を付けていってというふうな、自分の体をそういうふうに鍛え上げようというふうな欲求に取り付かれた女性のヌードです。このリサ・ライオンとメイプルソープは、ある時期共同作業のような形で、写真のシリーズを作っていまして、これは、碓かレディー・リサ・ライオンという名前の写真集にまとまっているわけです。この写真は、その中でも代表作の一つですけれども、メイプルソープの非常に厳密な美意識、空間構成の感覚、光りと影の配合の感覚、そういったものが非常によく出ている写真で、大変美しい裸体ではないかというふうに思います。おそらく、これが、税関等で問題になったのは、性毛の問題だと思うんですけれども、これも先程から強調しているように、わいせつ感のようなものというのは、全く呼び起こさない、あるべき所にあるものがあるのをストレートに写しただけで、逆にこれを、たとえば修正等を加えると、わいせつ感を呼び起こすんではないかというふうに思うわけです。
−そのレディー・リサ・ライオンという写真集は、日本でも発売をされた写真集ですか。
はい、招かJICC出版局という所から発売されているというふうに思います。今は、宝島社というふうに名前が変わったと思うんですけれどもね。そこから発行されています。
−出た当時、それは相当売れたというか、好評だったんですか。
売れ行きはよく分からないんですが、話題になったことは間違いありません。又、このレディー・リサ・ライオンの展覧会というものが、品川にある原美術館で開催されております。
−(甲第26号証を示す)これは、どういう写真集ですか。
ブラック・ブックというタイトルが付いておりまして、ブラックというのは黒人を表す言葉でして、黒人の男性のヌード写真を集成したものです。
−これは、メイプルソープの業績の中では、どのように位置付けられるものですか。
黒人の裸体というものは、彼のある種取り付かれたテーマでして生涯にわたって撮影し続けています。それをまとめたものですから、彼の裸体に対するある種傾向というかスタイル、そういったものが端的に表れていて、彼の世界に引き込んでいく写真集ではないかと思います。
−(甲第27号証を示す)これは、どういう写真集ですか。
これはメイプルソープの死後、1992年に出版された、メイプルソープの生姪を振り返る回顧的な写真集という意味で、これまで出た中で、最も量的にも質的にも充実したものと言っていいと思います。
−その今回の写真集を含めて、メイプルソープの写真ということについては、証人の立場から見て、これが、わいせつな写真というようなものかどうかという点については、いかがお考えでしょうか。
個人的な意見と写真史的な見方と2つに分けなくてはいけないと思うんですけれども、個人的に見ては、全くわいせつだとは考えおりません。彼が追求している真面目な取り組みの姿勢の中で、必然的に性器ないし性行為というものが写っているわけですから、それに対して決してわいせつだというふうな観念は抱きませんし、全くわいせつだというふうなことに対しては、理解出来ない所があります。写真評論家的な立場で言えば、これをわいせつと見てしまうであろうというふうなことは、やや想像出来る所はあります。というのは我々日本人というのは、どうしても性器とか性毛に対して、非常に規制が強かったこともあって、ある種ののぞき見的な好奇心をずっと持ち続けておりまして、ある一部分に対して、ある意味で非常に意織過剰になってる部分があるんではないかと思うわけです。ですから、そういった意識過剰になってる人々から見て、これが、わいせつだというふうな感じであり得るであろうことは想像出来ます。ただ、私自身は、意識過剰であるような状態巌そのものが、全くいい状態だとは思ってませんで、こういった写真が、非常に普通の形で意織することなく見ることが出来るような状態というのが、一日でも早く来ることを願っているわけです。
−本件の裁判では、先程見ていただいた甲6号証の写真集、これが、公安又は風俗を害する物品ということで、輪入禁制品の該当通知というのを受けたんですけれども、このメイプルソープの写真が税関で取り締まられて、国内に輪人出来ないという現状について、証人としては、どのようにお考えでしょうかく
大変憂慮せざるを得ない状況だというふうに思います。というのは、このような非常に真撃な取り組みをしている写真蒙、取り分け裸体あるい肉体に対して、大変自分の身を削るような形で作品を作り続けてきた芸術家に対して、その写真集が、自由に見ることが出来ないというような状況は、大変困ったことでありまして、私個人としても非常に困るわけで、なんとか出来ないものかなというふうには思っております。
−(被告指定代理人)反対尋問は結構です。
−原告代理人(最後に、証人のはうから何か言っておきたい点があったらおっしゃつてください。)
今回の裁判は、いろんな意味で注目しておりましたし、このような形で証人として証言出来たことは、私にとっては意義のあったことではないかと思います。というのは、やはり、わいせつであるか芸術であるかというような不毛な論争に終わることなく、写真という表現メディアの可能性というものは、どのような形で守り続けられ発揮出来るかということに対して、私自身は大変強い関心を持ってまして、この裁判というものは、そういう意味で写真表現の現在から未来に掛けての可能性というものをはっきりと示すという意味で重要な意味を持ってるものではないかというふうに思います。というのは、これから以後、人間という大変謎めいた訳の分からない存在というものがある限りにおいて、写真家たちは、人間の存在というものを好画紙あるいはフィルムに定着するという作業を続けていくであろうからで、その時に、写真家たちがやろうとしていることに対して、なんらの形で規制が掛かってくるという、あるいは自己規制せざるを得ない状況に追い込まれていくであろうということに対して、非常に憂慮しているからです。ですから、この裁判が、是非いい形で結審されて、写真の表現というものが、自由にのびやかに個人の判断でやれるような状況になることを期待しております。
−(裁判長)日本の写真家で、このメイプルソープの活動と同じような写真活動をしている方はいますか。
確かに日本人の写真家で、裸体表現という意味でいろ人な形で展開している写真家は沢山いらっしゃいますけれども、メイプルソープに匹敵する仕事をされている方は、いないと言っていいんじゃないでしょうか。
−それは、質とかいう面ではなくて、対象というか、そういうふうな目で見た時も同じ答えですか。
対象という意味で言っても、やはり、日本人の写真家でメイプルソープに対応出来る写真家というのは、いないというふうに思います。
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