〔生きる意味〕を語られるとしばしば、ちがうなと思ってしまう。今日の秩序にたくみに折りあいをつけた計算をきかされている気がするのだ。そうでなければ、イメージされている現実が、どうでもいいところでどぎつかったり、また、だれにとっても切実であるはずの暗い部分がきりすてられていたりする。私たちはもっとよごれているのだ、破滅しやすいのだ、〔地獄〕をかかえこんでいるのだと言いたくなってくる。
さびしいとき、生きているのがつらくてたまらないとき、美しいものがなにもかも嘘っばちに感じられるとき、いつも次のような問いが胸にわきおこってくる。この現実のどこをどう折れまがって、どんな姿勢で走っていったら、ほんとうの自分に出会えるのか?自分にむかってくる力をどんな角度で集約してはねかえせば、自分の表現(出会うべき自分をこの世界に登場させること)が可能になるのか? しいられた孤独がたおれこもうとする物語をどんなに拒んでも、ひとりでにむこうから近づいてくる疲労と安易な結末、それをどうやってふりきれば、ただ歩いていることがそのまま自分を奪いかえしていることになるのか?
こんなとき、走ってはいけないことはわかっている。でも、知らぬまに走りだしている。この焦燥と不安を突きぬけたところに吹いている涼しい風のなかにたしかな信号を送りだすには、どうしたらいいのか?
少年期からずっとぶつかっている。いまだに解けない問い。性急すぎるし、抽象的すぎるし、具体的に現実に足をひっかけて存在している場所からみれば、上すべりした問いだとかたづけられるかもしれない。だれもが黙って耐えているしずかな水面にいたずらに波紋をひきおこしているひとりよがりな若さをいつまでも始末できない、という性格的な悲劇が読まれるばかりなのかもしれない。なにが足りないのか? ここにあるものが闇であるなら。この闇の奇怪さを十分にとらえることができないのだ。
立ちどまらなくてはならない。自分をただの石ころのようにおいて、この闇を吸いこむようにしてじっとしていなければならない。
記憶のなかから何年も会っていない友人のあおざめた表情が浮かびあがる。なにを言うために〔彼〕はあんなにも口を歪めていたのか? 〔彼〕は世界を拒もうとしていた。意味を失った光をもって訪れる朝を認めまいとどこまでも闇に沈みこむ姿勢でうつむいていた。〔彼〕とどこですれちがってしまったのかわからない。記憶の回路をつなごうとしているうちに奇妙な斜面をおりていることに気づく。にせの夜明けをのみこんで濁ってゆくこの世界の底を流れる暗い川へおりているのだとしよう。〔彼〕はそこにいる。この世界を拒もうとして、この世界の汚物にまみれた〔彼〕の叫びをきくのだ。もっとも残酷な〔彼〕ともっともやさしい〔彼〕がおなじように酷使されて這いつくばった、そのことの意味を知るのだ。いやしい身ぶりにみちたこの世界をおりきったラディカルな言葉に出会わなくてはならない。
この世の下水はことごとくおれの直腸へ集中するがいい/ 姦淫も密告もあたうかぎりの背信も/ みんなゆるしてやるからおれの居間にはいってこい
白井秀和の詩集「初冬降誕祭』(一九八〇)の「神学」という作品の一節である。この声をきくたびに私は生きる力へもっとも深いところから励まされるのをおぼえる。そうなのだ、〔この世の下水〕をおそれてはいけないのだ。むしろすべての飛躍は、〔この世の下水〕を自分の内側にのみこむことからはじまる。〔この世の下水〕にまみれることなくたのしそうに幸福vをうたっている者たちや、こずるい処世に保証された教馴をたれる者たち、下半身を見失った高級な悩みや感傷をもてあそぶ連中になにがわかるというのだ?白井秀和は、この世界にむきあってこの闇を深々と呼吸する姿勢を私たちに教えている。あらゆる飛躍を結末のきまった物語にひきずりおとそうとする〔この世〕の秩序を支配する神をこえるというモティーフによって、〔この世〕のゆるす物語の振幅をこえた領城におりようとしている。彼の居間には、この現実を生きて病む自分かその存在よりもひとまわり人きな倫理になって帰ってきている。私たちはそこに、存在の感じる不安がこの世界にとって脅威であるような〔否定の根拠〕として登場しているのをみる。もちろん、この登場のしかたは十分なものではない。けれども、私ははぐれてしまっていた〔生きる意味〕に出余ったような昂奮をおぼえた。このように〔この世の下水〕に通じる角度からなら、大胆に走りだしていたはずだ。
(白井秀和詩集「初冬降誕祭」は、豊橋市弥生町字東豊和19-3あんかるわ発行所に申し込めば、〒共一六〇〇円で入手できる。)
ふくま・けんじ氏は岡大教養部英語科教官