岡山大学新聞259号 1981年4月25日

81 岡大の現状は今どうなっているのか!? 空洞化をきわめる大学の自治
大学・その虚象と実像

岡山大学では今、どれほどの学生が現状を認識しているだろうか。おそらく、大部分が一日を安穏と暮らし、毎日を惰性的に送っているのではないだろうか。

その惰性はどこからくるかといえば、学生自身の甘え、やる気のなさ新しいものや権力に対する恐れからきている。そしてその根本の原因は中教審路線に基づく教育機関の延長上としての大学にある。

そこで今回は、「新入生特集号」としての企画を兼ね、全学友に岡山大学及び大学一般の現状を認識してもらうべく、さまざまな観点から現状況を分析してみた。

クラスサークル・自治会・大学研究、これらはどれをとっても本来の意味を失いつつある。そこで、「なぜその意味を失いつつあるのか」ということを解明しつつ、その裏にある管理強化、即ち大学再編について、認識を新たにしていくことは意義深い。

また今まで岡大新聞は、寮闘争、BOX闘争について再三紙面をさいてきたが、今回この紙面を通じて、前二闘争の概略と意義を総轄的にまとめるのも、この企画の一つの目的でもある。

このようにみてくると、学内におけるすべての闘争及び幣害の原因は、資本論理の貫徹に基づく上からの管理主義に起因していることがわかる。これこそが、ものいわぬ安易な学生達を使っているのだ。よって我々は現状を認識することから始めるべきだといえよう。

クラス

クラスメイトはノートコピーメイト・カンニングメイト

小・中・高校でいうクラスは、大学に存在していないといってよいだろう。研究室、ゼミ単位での類的人間集団はあるが、てれも小・中・高校でいうクラスとは異質である。大学の講義がおもしろみのないものとしてうけとられるのみならず、単位取得のための講義として即物化、風化している現状にあって、クラスはなんら目的を与えられていないのも、ごく当然なことかもしれない。クラスメートは、ノートコピーメイトであり、カンニングメイトであるのが実状だ。講義は単位数という値札のはられた商品であり、消費者組合としてのクラスは、この商品をいかに安価で買い入れるかやっきになるのである。クラスの現在のごとき荒廃は、70年代前半における文部省・大学当局によるクラス解体に端を発している。それ以前においては、学生の自主的活動を保障しうる場としてあったクラスを、全共闘運動の圧殺過程において文部省・大学当局は、全共闘運動をその根底にある学生の自主的活動を、大学の枠内から排斥せんとしたのである。

ここにおいてもはや大学は、学生主体を内包しえなくなってしまったといってよい。その後の大学に残ったものは、学生を管理、抑圧せんとする大学当局と、大学に商品としての単位しか求めぬ学生である。

クラスによるコンパ、レクリェーション、自主ゼミ等行なわれるクラスもある。クラス内の人問関係が親密化されているの事実であろうが、それをもって自主的活動の場としてのクラス再生が進んでいるとは言い難いものがある。むしろ大学当局による主体性の管理、抑圧の一環としての三S政策(セックス.スポーツ・スタディ)にのっかかったところに位置している場合もあるのではないだろうか。現実から遊離したところでの学間研究に対して”象牙の塔に陥るなかれ”の批判があびせられるが、権力に主体性を抑圧、管理された中でのセッックス、スポーツ、スタディも自閉的傾向に陥っていくものとして警戒せねばならない。現在の大学におけるクラスの荒廃という状況には主体性の回復という視座からのアプローチが、模索されない限りクラスの再生へとは向かいえないだろう。

大学研究の現在

大学は教育の場であるとともに研究の場でもある。つまり大学は、社会における科学技術の進歩の一翼をになっているのである。とりわけ、基礎的な研究は大学で行なわれている。

しかし、まず前提として考えておかなければならないのは、現在は資本主義社会であり、主要な生産手段はほとんど一部の資本家がにぎっており大多数の労働者・人民は労働力以外何も持っていない一ということである。つまり、科学技術がいくら進歩したとしても、現在社会では、それは資本家しか生産活動にとり入れることができず、資本家は労働者から搾取することを目的に生産しているのであるから、それは労働者を搾取することにしか用いられることがないということである。

以上のことを前提として岡大での研究を具体的にみていく。

まず岡大では、七〇年代を通じて「重要基礎研究」としての宇宙科学・加速器科学およびエネルギー研究等に重点を置き充実された。

この宇宙科学・エネルギー研究は、政府=独占ブルジョアジーが「高度成長」以降の資本主義の経済危機打開のため先頭に立って推進しているものであり、有利な投資市場がなくて、「過剰」となった資本の新たな投資市場創出のために行なわれているものである。

この宇笛科学などは、実体化されたものとして、ロケットの打ち上げなどが有名であるが、この技術は直接軍事に利用されており、大陸間ダンドウ弾などはロケット打ち上げ技術をそのまま用いたものである。

またエネルギー研究はどのように利用されているかというと、従来産業に関しては、エネルギー転換・高度化=搾取の強化という形で利用されており、それは、たとえば鉄鋼産業における「七割操業でも利益の上がる体制」といったぐらいに、徹底的な労働強化と一体のものとして行われている。

最後に、岡大当局が科学に対してどのような見解をもっているか見てみよう。 「工学は・・・資源の極めて乏しい日本の経済発展を担っている学問分野である。」 「工学部は日本発展の成否を背負う高級技術者および研究者の育成ならびに研究推進を期待されている。」 (以上工学部)

自治会

会費徴収機関? 学生「自治会」

学生自治会は本来、クラスを構成単位として組織され、大学における最大の学生自治団体であったが、現在に到ってはクラス解体という現実に瀕し、その機能ををほとんど果たしえていないといってよい。70年代前半には、全学部に自治会が組織されていけたにもかかわらず、いまや法経自治会、工学部自治会、、農学部自治会、医学部自冶会の四自治会を残すのみとなっている。しかも、これら四自治会の活動は進退を極めているといってよい現状だ。クラス解体という状況をみすえることなく、執行部のいわば独裁的自治会活動を呈してきているのである。

法経自治会の学生総会は、出席者の数倍にも及ぷ委任状によって成立してきたが、80年学生総会は流会となった。農学生会の学生総会も委任状制度を出席者一人について委任状を一通と改正したことにより、80年学生総会は成立していない。工学生会も、80年6月の執行部改選が行ないえなかったなど、同様の状況にある。わずかに医学生会においてのみ、クラス討論による学生総会、学生集会が成立し自治会活動がおこなわれている。全国的にみても学生総会が成立している自治会は、東大文学部自治会をはじめ、わずかである。

では、自治会活動の低迷のなか、自治会執行部はいかかなる方針をあげ活動していこうとしているのであろうか。法経有治会の自治会論をみてみよう。法経自治会は、民青(日本共産党民主青年同盟)系の全学連に加盟する自治会であり、自治会の機能を「全員加盟制のもとで学生の政治信条や思想の違いを当然の前提とし、要求で一致し、その実現のために行動する全学生を包括する唯一の組織である」と位置づけている。学生主体は、おのおのに多様な政治信条や思想をもつが自治会活動においては、学生主体が有している、政治信条や思想は問題とされない。自治会活動においては学生主体の要求が問題なのであるというわけである。ここにおいて学生主体は政治信条や思想という独立項を、要求という独立項をそれぞれ内在させていると把握されている。そして自治会活動は、学生主体の要求という独立項の一致に基いて行なわれるとされるのである。はたして学生主体における政治信条や思想と要求を独立項の関係におきえるものであるのか疑問であるし、学生主体の要求のみにもとづく自治会活動が、学生主体にいかに還元されていくのか、また疑問である。

自治会執行部は、大学当による学生主体の管理、抑圧という現状を、クラス解体という事実を、厳しく見すえねばならないであろうし、学生主体の自治的活動の場として自治会をとらえ、学生主体を抱括しうる自治会の再生を試行していかねばならないだろう。また自治会費の徴収のみが行なわれ、活動決算報告すら行ないえないという自治会活動の再生は、自治会執行部のみの問題ではない。

岡大再編

進行する学内治安弾圧

文部省の諮問機関である中央教育審議会(中教審)は発足以来一貫して政府、プルジョアジーの御用機関としての役割を果たしており、「資本の要請に従順で有能な高度に目的化、類別化された物言わぬ人間作り」をめざす教育再編の基本路線をつくりあげてきた。

そうした再編、学生の自主活動圧殺のための学内管理強化のモデル校として一九七三年、筑波大学が造られた。筑波大学の学内では一切の改冶舌動が禁止されており、ビラを出すのも、大学祭で企画をやるのも当局の事前許可が必要で、学生、職員を管理しつくそうとしている。

現在岡大においても、中教審路線に基づく帝国主義的再編、学内管理強化=筑波化が様々な形をとって行なわれてきている。

この十牢間「岡山大学整備計画」に基づき、「総合化」「国際化」「開かれた大学づくり」が進められ、現在は再編の最後的段階ともいえる学内治安維持体制の強化が押し進められている。

管理強化

BOX・寮闘争

現在、岡大再編の中心は寮、サークルといった学生団結の砦ともいえる所への解体攻撃になってきている。

まず、寮に対する攻撃は会計検査院の指摘する国庫超過負担を理由にした廃寮四条件付新寮建設強行宣言といった形で行なわれてきた。その後岡大当局は昨年度五月には現寮の廃寮決議、六月には四条件付新寮の概算請求決議を強化して廃寮攻撃を急速に進行させており、七月には学長団交を要求する学友に対して機動隊を導入しようとするなど、学生弾圧も強化してきている。

このような廃寮攻撃は、何よりもまず、現在岡大学生運動の拠点ともなっている現寮をつぷし、四条件付新寮を建設することにより寮内での学生分断をはかり学内治安管理体制を強化することが眼目となっている。

一方サークルヘの攻撃は一昨年、現ポツクスをつぷし、現ボツクスより狭く、使用制限つきの新ボックスを学生に強制するといった形で行なわれてきた。

また岡大当局は、新ボツクス周辺住民の、騒音を理由とした移転要求の声を利用し「夜十時以降はボックスは使用させない。」などとして「当局としては学生にサークル活動を自由にさせるつもりはない。」などとサークル活動規制強化を宣言するまでになった。

現在、ほぽ新ボックスは完成し、ボツクス使用の現状(二十四時間学生の自由使用、学生の独自管理)を維持できるかどうかが、当面の問題となっている。

このようなサークル活動の規制は、まずサークル活動を通じての学生の団結をほりくずし学生分断をはかり、学生管理を強化しようとするものであり、廃寮攻撃と岡じく学内治安管理体制確立の一環であるといえよう。

しかもまた当局は、学生のサークル活動規定を強化する一方で、大学周辺の住民に対しても、交渉を一方的に打ち切り、「住民がどうなろうと大学の知ったことではない。」と言い放つなどこの再編、整備計画を、大学周辺住民の生活環境を犠牲にしてまでも強行した。

これは岡大当局が「地域に開かれ、ともに歩む国立大学でありたい。」としながらも、単に地域に開かれているのでなく、地域の資本家のために開かれることを目的としたものであることを示すものであろう。

このように大学当局は現在に至って、反人民性をますますあらわにしてサークル寮への攻撃をなしきろうとしている。 これは一つには学内治安管理強化をテコに大学を帝国主義イデオロギー注入の場につくりかえ、学従動員をもめざした大学の侵略拠点化を強行することが目的であり、もう一つは侵略戦争へむけての国内治安管理体制確立の一つとして、大学の治安管理強化を位置づけているからなのである。

それは日本帝国主義の延命をかけた軍事大国化、侵略戦争準備にかける一環であるにほかならない。

ゆえに、これらポックス問題、寮闘争を、サークル寮関係者だけの問題とするのではなく、全学友にかけられた攻撃と見抜き、これ以上の管理強化を許さないためにも全学友で、急速に進行する軍国主義化に反対する闘争の一環として発展させなければならないだろう。

サークル

サークル活動のサロン化

自分は何を求めて大学にやってきたのだろう。入学した頃のあの漢然とした期待、大学では高校と違い、自由で充実した生活がおくれるだろう。やりたいことをやり、学びたいことを学ぼう・・・

しかし、新しい環境にも憤れ、目新しい事もなくなった時、自分はやはり以前の自分でしかなかった。毎日毎日の講義。それは一体なんなのだろうか。ほとんどの講義に興味を感じられない。あるものは、教官の世間話ばかり聞かされるし、あるものは、一方的に知識をばらまくだけのように思われた。ほんのひとつか二つの興味を感じる講義も他の無数のくだらない(と思われる)講義たちに押し潰されるみたいだ。もはや教室のなかに誰の姿も見えない。そこにあるのは顔をなくしたのっぺらぼう達の集まりである。

ひとりでいることに耐え切れなくなって、自分はサークルへと向かった。

75大学祭「基調」にある「入学後二、三カ月の学生存在によって対象化された教室−学生情況」である。

サークルはいわば、クラスにもとめえなかった、類型的人間集団としあるといってもよい。サークル活動が、なれあいに終始し、サークルのサロン化が言われて久しい。ただ、かろうじて大学における学生の自主的活動を保証しうる場としてあるサークルも、その現状には厳しいものがある。

現在岡大にある80余サークルの連合組織としてある学友会も、サークル活動の低迷にあって、その機能を十分に果たしえていない。80学友会総務委員会は、こうした学友会の現状改革に向けて、学友会の個々のサークルにおけるとらえ返しを、自らのサークル活動の自己検証を80サークルに呼びかけた。

現在の大学情勢にあってサークル活動が何を果たしうるか問われている。大学当局により管理、抑圧された学生主体の回復がはかられなければならない。


[ BACK ]