岡山大学新聞250号 1980年6月25日
単細胞的「暴力反対」論のもたらすものは…
近日の「文学部自治会再建」運動への疑問
法文学部史学科日本史専攻一学生
(1)
ことし5月頃から、文学部目治会「再建」の運動が進められていると聞く。すでに、哲学専攻生のうちから20名ばかりの人々を中心として、「再建委員」も選出されたといい、再建のための「討議資料」が各研究室・クラスに配布されているのを目にした。この「討議資料」の内容については、6月4日付けのビラによって「若干の疑問」を表明しておいた。しかし、6月17日現在に至るも、いまだに回答に相当するものが、何らかの形で公開された様子もない。
で、はっきり言って私は、そういう趣旨の自治会再建なら反対である。
手許に「全学連重要文献集No.20」という一冊がある。言うまでもなく、この「全学連」は、法経学生会も加盟しているいわゆる日共系の全学連である。これは別に他意あって言うわけではなく、現にこの「重要文献集」のなかでも、「このたたかい〔ii「戦前戦後の学生運動の歴史と伝統」〕は、不屈の科学的社会主義の党・日本共産党のさし示す方向と合致したものであり、戦前の自由と民主主義をめざす国民の闘争のなかで不滅の足跡を残すことになった。」(「学生の知的めざめを社会進歩に」)などと「赤旗評論版」の紙上に、この全学連の副委員長が公言しているというのだから、そういう意味でなら、文句はあるまい。
さて,何が言いたいのかというと、「再建委員会」によって配布された「文学部自治会再建討議資料」の内容は、この「重要文献集」の「自治会再建運動の前進のために」といった章のなかで述べられている、そのセオリー通りに出来上っているということなのである。
お手軽なものだ、などと言えば非礼にわたることになろうが、そのことは、
「そもそも学生自治会とは簡単に言えば、二つの役割があります。つまり(1)全員加盟制のもとで、学生の政治信条や、思想の違いを当然の前提としつつ、要求で一致し、その実現のために行動する全学生を包括する唯一の組織であるということ……」
といった学生自治会の役割づけから、スローガンの最後に
「いかなる暴力にも絶対に反対し、学園の自由と民主主義を守ります。」
と「暴力反対」を並べるに至るまでの間に、基本的に一貫していえる。
さきに「若干の疑問」を表明しておいたのも、このふたつの点についてだが、すでに述べた通り、回答はまだないようである。
しかたがないので、「疑問」にとどめず、ともかく自分の考えとして述べておくことにする。
まず、前者の学生自治会の役割づけについて。学生の「政治信条や、思想」と「要求」とを、あたかも排中律的に二分するかの如き、前記のような論法は、「政治信条や、思想の違い」を討議や論争を通じて止揚しつつ、「要求」へと流し込んでゆくことを妨げるものとして、誤謬に満ちたものだと私は考える。
かりそめにも「戦前戦後の学生運動の歴史と伝統」に思いをいたすのならば、真に科学的な思考や政治信条を大衆的な学生運動へと流し込むことができず、学園をファシズムの支配下にゆだねる外のなかった敗北と蹉映の歴史と伝統にこそ思い至るべきものである。リベラリストの教授に対してすら、学生が「アカ」のレッテルを貼って追放を「要求」した、というような記録を調べてみるがいい。
私目身は、戦師の天皇制ファシズムとのたたかいに一敗地にまみれた日共を「不屈の科学的社会主義の党」などとは思わないものだが、学生運動についても、「『学連』(学生社会科学連合会)を中心とする学生たちの運動は科学と真理に忠実であるが故に、…天皇制改府と反動勢力のいかなる弾圧をも恐れず不屈に英雄的にたたかいぬいた」(全学連第二十四回大会決定-などと、特定の一部のみをとりあげた仲間ぼめをして、済ましているわけにはいかないと考えるのである。私たちは、すべからく事実の全体を直視せねばならない。
そこで、この道はいつか来た道、というように、敗北と蹉跌の歴史と伝統へと、後戻りをさせるような自治会なら「ない方がいい」のである。
「暴カ」の問題についても同じことである。「知識」なり「思想」なりが、その内容の持つ必然性に従って身体的行動として表現されるといった次元の問題として考えずに、「暴力はどんな暴力でも暴力だ」式の単細胞的暴力論はつまり、意味をなさないのである。
そのような単細胞的思考に立脚した「暴力反対」によってしか守られない「学園の自由と民主主義」であれば、そのような「目由と民主主義」は、大衆に対する個々人の自己存在としての責任をわきまえぬたぐいの、つまり究趣的には組織された「合法的」暴力としての国家権力によってしか保護されえないものとなるであろう。
(以上6月17日、記)
(2)
本日18日になって、偶然「討議資料No4(改訂版と題された「再建委員会」のビラを手に入れた。(1)で書いたように6月4日付けで表明した、私の「若干の疑問」に対する回答の形になっている。
その回答の内容によって(1)の論旨の変更を行う必要は、しかし、認められない。その回答内容とは、たとえば次のようなものであるからである。
「私たち各学生は、それぞれの政治信条や思想を持っていると思います。しかし〔何がしかしだ!〕岡山大学に学んでいる、そして文学部(文科)の学生であるという点については、共通の要素を持っていると考えます。そうした共通点のある私たち文学部(文科)学生には要求の一致点があることは確かです。」
「学園暴力は、自分たち以外の考え方を持つ人は暴力によって排除するという非民主的行為です。」
要するに、またしてもだ。舌打ちするか、あきれるかするより仕方がない。
「政治信条や思想」も、「要求」も、「暴力」も、ただ先験的に自明な感じの言葉としてしか、用いられてないのである−これらの文章の中では。相互に無関係なものとして区別されたり、あるいは無媒介的に対立させられたりしているだけでしかない。
そんなことを言って、腹を立ててみても、どうやら仕方がないと思われる。むしろ、たとえば「暴力」について次のように言っていることに、「再建委員」たちの本位を読みとるように努めるべきなのかもしれない。
「私たち学生は、大学外部からの権力の介入を退け、学問の自由を守らなければならないでしょう。そういった意味でも大学の自治を確立するためには、大学の三者自治(教官、職員、学生の三者からなる自治)を確立する必要があり、全員加盟制自治会が必要となります。そして大学内に於る暴力は、外からの権力の介入を阻止する手段とはならず、かえって機動隊の学内動員や、学生活動のしめつけの強化などの結果をもたらしています。」
なるほど「結果」はその通りだとしよう。だが、果たしてその原因は?
「大学内に於る暴力」がかろうがなかろうが、「学生活動のしめつけの強化」は必然的に訪れたのではないか。それが、日本資本主義社会の高度産業化にともなう国家意志=政策決定としてある限り。ただ、早いか遅いか、闘って倒されるか闘わずして自ら武装解除(イデオロギー的な意味も含めて)するか、の違いでしかなかったのではないか。
それに、「機動隊の学内動員」を学生に対する「告発」といった形で行ってきたのは、いったい誰なのか。そういう責任の所在を曖昧にしたまま、どうして「暴力」だけを切り離して考えることができるのか。
「大学の三者自治」云々に関しては、すでに11年も以前に書かれた次のような批判が、今もそのままあてはまることになろう。
「『民主化行動委』に結集しさえすれば、岡大闘争に対して、その正しい解決(大学それ自体の意味の問いかえし)が可能であるとは言い切れず、(今まで何もなしえなかった、という事実だけでそう断定してはならないでしょうが)、むしろ、彼らの言を借りれば、全共闘の否定、その提起した問題の解決の放棄という点で、当局との「補完関係にある」とは言えないでしょうか。私たちは、こうした一切のレッテル張りを拒否します。こうした諸君、とりわけ「民青班」の諸君のなすべきことは…「管理運営の決定過程に学生教官職員の意志を反映させる制度的保障をかちとろう」といった言葉のみをくり返すのでなく、「なぜ、それが必要なのか」という原理的必然性を提起すべきだと考えられます。(「学生参加の原理」=「大学の自治研究会」69年4月のパンフより)
この「民主化行動委」を「全員加盟制の文学部自治会」に、「民青班」を「再建委員会」に置き換え、さらに「全共闘」=「文科闘争委員会」と読むならば−。
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