岡山大学新聞250号 1980年6月25日5.31集会宣言ことし80年代に入って、世界情勢の激変−特に最近においては韓国全羅南道における学生・市民の決起をみているわけだが、そのなかで日本の資本家層と政治権力とは、急速に戦争への傾斜を強めている。そして全国的に管理、分断せんとする中教審路線にもとずいた政府−文部省の攻撃が、現在、総仕上げの段階を迎えつつある。かつて69年を中心とした大学闘争の震源のひとつととも彼らがとらえた学生寮の、最期的解体をねらった文部省の「老朽寮一掃作戦」は、そのひとつの指標である。 だが、中教審モデル校ともいうべき筑波大学における学生反乱−4・20集会にみられるように、彼らの学生管理はその完成そのものの中から、今やほころびを見せはじめている。 この事実から、二つのことがわかる。 中教審路線が、すでに「大学帝国主義的再編」ともいうべき、その反動的、抑圧的な性格を全面的に現実のものとして、露わにしているということ。 我々が、それぞれの闘いの基本的立場を広く明らかにし、そのことによって相互の連帯を築きつつ、中教審路線の全体に対峙すべき時期がきたということ。 この目的のために、我々は本日、岡大キャンパスに集まり、この宣言を発する。その場合、本日の日付が、ファシスト=「マル青同」によって引き起こされた「5・25」の5周年に規定されて意味づけられていることは、我々の闘いと連帯の、次のような質を指示するであろう。 つまり我々は、個々人の自己解放の内実の絶えざる深化として、それぞれの置かれている情況の中での闘いを生き、そのことによって相互に連帯してゆくのである。そのことによって反中教審という我々の現在的立場は、更なる深化をはらんでゆくであろう。なぜなら中教審路線という政府−文部省の教育政策は、現段階における日本のブルジョワ・イデオロギーの水準を背後にもち、その限りで個個人の本質的主体性の圧殺としてあるのであるから。それとの全面的対決へと志向するものとして、たとえば「寮闘争を階級闘争として闘い抜く」といった我々の断言があるのである。 そのような闘いと連帯へのひとつの出発点として、本日の岡大集会は克ちとられたのだ。 そのような闘いと連帯へ向けて、
(1980年5月31日) |