岡山大学新聞244・245号 1979年9月15日

岡大三十年

岡大草創期の学生運動(1)

好並隆司

 1949年の秋、新制大学発足にともなって、岡山大学も開学のはこびとなった。これに先だつ2月には全学連第1回臨時全国大会が開催され、中執アピールが発表された。その要点は「学生生活の擁護」「学問の自由」「教育の植民地化反対」であり、新制大学設置についても、浪人の増大と教職員の失業の危惧を表明し、設立そのものについても植民地的インテリの養成だときめつけている。
 「生活擁護」というスローガンは当時の学生の大多数をひきつけるもので、今日現在のそれと全く違う。学生食堂は御飯のかわりに蒸し芋とミソ汁という献立が普通で、イワシの煮付でもあると御馳走というわけである。いまも健在の荒川菅彦氏が食堂経営者だったが仕入れに苦労したと筆者に語ったことがある。靴もなかなか貴重品で、おおかたは下駄履き、旧制高校の気風が残ってもいたのだが、おかげで教室はガタガタと騒音で始まる。
 市内バスはあったが、乗る金があればパンでも買うというわけで、市内から徒歩が多かった。
 「学問の自由」についてはこの頃、知覧高等学校の菊永教官が辞職勧告をうけたことで、七高の生徒大会はその養護を訴えていた。岡大ではこのような具体的な動きはなかったが、翌年のイールズ博士の講演を契機として、レッドパージの波動が広がるとともに、哲学の梯明秀、近藤洋逸、経済の宇高基捕、仏語の長崎弘次、諸教官が危ないのではないかと誰云うとなくひろがって、学内の緊張感もつよまり、岡大では上記教官の受講者数がふえるというような現象もみられた。
 「教育植民地化」のスローガンはアメリカ占領軍の軍事支配が一層つよまるというスターリンの見解をうのみにした日共の方針から出たもので、翌50年から始まる朝鮮戦争の軍需景気によって、高度の資本主義国に復活するという見とおしは運動家も学者も全く夢想だにしていなかったので、新制大学 植民地化教育というのはごく当然の理論としてうけとられてた。
 いまは4000人を超えた岡大生も当時はごく少数であるので、今の教育学部あたりが教養の教室として使われているだけで、女子寮あたりは草ぼうぼうの荒地で、それが背たけほども生い茂っていた。そのなかに無人のバラックがあり、豪州軍使用済みの酒保などが放置されていた。壁面に原色のペンキで裸婦などが画かれていてグロテスクな印象をもったことを覚えている。こんな建物を利用して学生運動開始の相談をした。六高から移ってきた産賀文雄氏など5〜6名が集まって、岡大学生運動方針など討論した記憶がある。何はともあれ、自治会だというわけで連日ビラをまいた。そのビラをみて、やりたいという有志が現れて力強く思ったものだ。
 50年に入ると、すぐコミンフォルム機関紙上で、日共野坂理論批判がだされ、アカハタに所感という形で反論が発表されたが、これは衝撃的だったけれども何か議論するのがためらわれた。野坂理論とは簡単に言うと、占領下でも平和革命のコースがありうるという主張であって、延安帰りの野坂という名声と平和主義議会重視とが結びついて一般うけのする路線であった。しかし朝鮮危機に面している極東情勢のなかで、軍事闘争を無視する野坂理論は成りたたないというのがコミンフォルムの主張であった。所感の形の反論にたいして人民日報は説得の調子で日共を批判したため、日共は所感を撤回して国際批判をうけ入れた。こうして平和主義方針を捨てた日共は勢いのおもむくところ、軍事方針に行きつくのである。
 岡大では法文はじめ各学部に自治会がつくられ、運動の広がりもみるべきものがあった。サークルも新聞・弁論・社研・歴研・演劇など活発で自治会もそうしたサークル構成員に支えられる面もあった。夏休みあけに、米第八軍が三十八度線を越えて北進し、戦火が半島全域に広がった。細胞はこの北進を侵略とし、北鮮軍を人民解放軍と規定する新聞を発行して活発に宣伝した。この新聞発行責任は理学部に属したY氏であったが、配布前日にその地位におかれたため、10月31日公布された政令325号(占領目的阻害行為処罰令)によって、キャップの産賀氏とともに逮捕令状によって追われる身となった。Y氏は京都に逃れ、産賀氏は福渡町に潜伏して運動の指導を続けた。黒メガネをかけて市内に現れた彼は中々立派にみえたが、筆者が少々色メガネをかけていたからかも知れない。両氏とも今は実業界に入って活躍とのことであるが、すでに30年近く、以後会っていない。

好並隆司氏は、岡山大学第一期卒業生であり、現在岡山大学法文学部助教授である。(注:この肩書は1979年当時。その後、教授、文学部長を経て退官。名誉教授)