日本原農民 奥鉄男さん 日本原闘争を語る
1979年5月9日、岡大学生会館で開催された「三里塚・日本原を結ぶ集会」での講演より。
自衛隊とケンカするのは面白い
土に生きる農民は最後まで闘う
自衡隊は皆を守りやしません
皆さんも今の自衛隊がはたしてどうであるか、あっちやこっちやで聞いてみると、そりゃまぁ自衛隊もなきゃならない、というような事も聞いた事がある。
ところがなして自衛隊がなきゃいかんのか、とうと、やっばり我々を守る為にはなきゃならん、という様な事を聞いたりしている。
自分が前の軍隊にいて、二年三カ月ぐらい行って帰って来たわけ、ところがその当時の軍隊と今の自衛隊は同じ事だと思うん。
まあ今の自衛隊にいろいろ聞いて、その何を実際に守るかというと、やっばり住民を守るとは絶対言っていない、国土防衛だと、ゆうような事を言うんで。
ところが時には皆の為にやったと、何をやったな、言うと、まあこれは漫才かどうか知らんですけど、あの水島の三菱の重油が流出した時にやったんじゃと。それは我々の為にしたんじゃないじゃないか、財閥の為にやっただけで。
実際に我々の為にやってくれるんなら、今政府が農民に対して米を作るな、というような弾圧に対しては、なんでそんな事やる、と一応政府に抗議してくれりゃやっぱり我々の味方になるんじゃ、というような事をゆうたわけですけど。
実際本当に、今の自衛隊が皆を守るとかゆうて見ると、絶対守りゃしません。
我々本当の平和を守るのには、我々で守ると、自衛隊もクソもいらん。という様な事でこの日本原問題を、自衛隊に反対をやっておるわけです。
そしてこれからも、我々は最後まで勝ち抜く、という考えでやっております。
自衛隊はもっと憲法を勉強して来い
それから無断耕作の裁判。あれは今から七、八年前に馬天嶺の西の高い山にシャレという所がある。そのシャレに(実弾を)撃ってそれから一年たってから伐採した時のことです。
秋になって田のアゼが(自衛隊の演習で)くずれた。その時にこれを直してくれんと、離作した所を開いて作るぞ、ゆうていったわけ。
ところが三年ほど過ってから、もうやめてくれんか、と自衛隊の方からゆうて来たわけ。ところがワシはやめん、と今のシャレとゆう所の木を切った所を元通りにしてくれればやめてやろうとゆうて、そのゆうた後も何も言わずして、そのまま作って来たわけ。
ところが去年の五月二四〜二五日ごろに田植してから一週間して、(自衛隊が)立入禁止の立て札を出したわけ、離作していない所も立入禁止にしておったから自衛隊の菅理部に連絡してちょっと来いと、おめえたちは何をしとんなら、と呼び出して現地へ行って、なんでこの耕作している所に立て札するんと。
と、これは離作しとるんじゃと、何をゆうとんじゃ、これは離作してないじゃないか、一応役場行って調べえ、とゆうことで(耕作)しておった所が、また来て、一応やめてくれえ、と。いやあそりゃやめん、まあ秋まで待ってくれ、ということであった。
今度秋になってやめてもらえるかどうかと、とゆうとまあやめずに作ると、そしたら止めずに作ると処置をとると、どうゆう処置をとるかとゆうと、まあ内容も言わずして裁判にかけたわけです。自衛隊の方が。
まぁその、いろいろゆうて、我々の方が実際に耕作する権利がある、我々は米を作って皆に食わす、お前達(自衛隊)は何なら人を殺すケイコばかりしよるじゃないかと、話しをした。
ところが最後には我々(自衛隊)は民主主義でやっとると、民主主義とはどうゆうものかと、ところがその、ほとんど(の人が自衛隊の存在に)賛成してくれておるからしとるんじゃと。
我々は民主主義とはそりゃ違うじゃないかと、実際本当に困る者に話しをして来てそれからやるのが当然じゃないか。我々はそんな事は一つも聞いておらず、また最後まで(闘いを)やる。
その時に我々は法でやっておるとゆうと、自衛隊も法に適用してやっておると、それで何をやっとるんならとゆうと、自衛隊法でやっとると、ところが我々は自衛隊法も何もありゃせん、憲法に基づいてやっとる、もっと憲法を勉強して来い(笑)とゆうとる。
自分が作り出してから五年ぐらいして、内藤秀之さんが、今度は宮内の人で離作した人の所(を耕作していたところ)、ここも無断耕作じゃとゆうて、そのまあ二人に(弾圧が)来ているわけ。
なんの為にこうゆうふうにして来たかと言うと、これは実際に反対を激しくやっとる二人にだろうと思う。
まあ他の人も(無断耕作を)やっておるわけですが、二人をやめさせてしまえば他の人もやめるだろう、とゆうことで、二人に、まぁ代表にやって来たわけだろうと思うん。
だからこういう事をして来ると我々はよけい意地固うなって、もっと他の所にも作ってやるぞ、とゆうとるわけ。
他の所も開いてみようと思って、おととし大根を作って、去年も大根が生えて、そのままになっておったところ、業務隊の方から、なんだあそこ大根植えてあるぞ、ありゃ誰が作ったんだと、いやそりゃワシが作っとん、お前ら裁判かけておるから、まだ余計他の所作ってやるぞ、と余計争うと向こうはどうも何も言わずしてそのまましとるわけで、なかなか自衛隊とけんかするのは面白いもんだ(笑)
なんとか自衛隊を解体しよう
昨年の十ニ月十八日、座り込みして(解説参照)逮捕されて、地元の勝英警察署に二日ほど留置されまして、その三日目にこの岡山の警察署に来た時、刑事が朝、勝英出てから何も食べてなくて、この警察署へ来てから、九時ごろだったと思うん、パンを出した。
ところがお前ら何を食べとる、お前らワシらの作った米を食っとるじゃないか、ワシらになんでパンを食わす。ワシらパンを食うてけえな生活しとらへんからメシを出せ、とゆうとメシならメシと言えばメシを出したのに、何で言わんなら、と。
何を言うとるん、お前ら何を食うんならと言うならワシャ言うけど、そうでないのに、何が出るのやらわからんのに、何を先々言うとってみい、しかられるから別に何も言わずにおって、それでパンを食べりゃせんからメシを出せ、とそれで昼にはメシを出す、と言うとったところが、昼になっても同じようにパンを出す。
それで何も言わずに、だまって、今度はまたここで暴れたら(拘留が)長ごうなっちゃいけんから、まあ早う帰ろうと思って(笑い)、それから帰りに、それまではおとなしゅうしとったけど、警察から出る時に、キサマらようおぼえとれよ、と。また来たるから、と言うて帰ったわけで。
まあっこ(留置所)に入ってみてもそれほど良い事もないけどな、まあ別に悪い事をしとらんのに、ああゆう所入ったら余計勉強できてな、反対余計できるだろう思う。別にあっこ入っても恐れる事は無いと思う。
そういう事でこれからもいりいろな事をやりたい、という事でおるわけです。
まあ今後ともなんとか自衛隊を解体しよう、とゆう覚悟でおりますんで、生きている間は、動ける間はやる覚悟でおりますから、よろしく御支援をお願いします。(拍手)
<解説>
岡山県東北部、勝田郡奈義町を中心に1200ヘクタールに亘って広がる陸上自衛隊日本原演習場は、西日本最大の自衛隊演習場であり、かつ地形が朝鮮半島に類似している。
また軍用道路=国道53号線、中国縦貫道をへて下関、釜山、さらには38度線まで約20時間で到達が可能な位置にある。
日帝の朝鮮軍事侵略が焦点化して来ている今日、日本原基地の重要性は増々大きくなって来ていると言えるだろう。
日本原基地の歴史は1909(明治42)年に帝国陸軍演習場として強制収用された時に始まる。この際、採草権、水利権、通行権を農民に見とめ、演習場内の耕作についても一年更新で認めていたのである。
戦後演習場解放運動が高まるが、奈義町議会は地元の反対を押し切って61年、条件付自衛隊誘致を強行決議した。
70年4月、自衛隊は東地区へ初の105ミリ砲実射を計画、25日、着弾地に農民が座り込んでいるのを無視して3発の実弾を撃つ、という暴挙をなした。
これに対し71年、地元農民を中心に「日本原軍事基地撤去訴訟」をおこし、闘っている。
76年5月16日、東地区での初の迫撃砲実射の時、反対派に対し、自衛隊が「弾込め! 撃て! 」の指揮官の号令の下組織的投石を行う、という前代未聞の暴挙をなした。
この時奥鉄男さんが自衛隊に木銃で突かれて負傷、内藤秀之さんの軽トラックが投石でフロントガラスを割られ、高取澄子さんを始めとする約50名の農民、支援が投石を受けて重軽傷を負ったのである。
ところがこの事件に対し岡山地検は「社会的利益を優先する」という理由で自衛隊を不起訴にしたのである。
そして78年12月、反対派の拠点である宮内部落を分断し、全面使用と闘争破壊を目的とする軍用道路建設が、日「共」、町当局、自衛隊一体となって強行された。
12月18日、ブルドーザーの前に座り込んだ農民支援に対し機動隊が襲いかかり、田んぼにいた農民にまで「道交法」を適用して、奥鉄男さんら農民7名を含む計24名を不当逮捕した。
さらに19日には8名が逮捕された。その後自治労、教組、解放同盟、社会党なども結集して現地で抗議集会が行われ、24日には三里塚反対同盟の北原事務局長もかけつけ、農民を激励した。
今や「西の三里塚」とも言われる日本原、不当逮捕によって逆に農民の士気は高揚し、さらに労農学の連帯を深めて闘争は進められて行くであろう。
【編集部】