岡山大学新聞再刊1号(通刊236号)1978年4月30日

学費値上げを許すな

 今年度からまたまた学費が値上げされた。入学金が六万円で授業料が十四万四千円になった。これまで度々行なわれてきた学費の値上げの結果、かつて月額千円だった授業料が現在では何と十二倍の一万二千円になった。

 文部省は私学との格差をなくすためなどといっているが、本来は私学の方を下げるのが本当の姿であろう。
 現在、インフレと不況の同時進行という条件の下で戦後最大の体制的(経済的政治的)危機を迎えている。円はついに一ドル二二〇円の大台を割り、体制はますます危機を深め、人民収奪のさらなる強化と立ち上がる人民に対する仮借のない弾圧でこの危機を残り切らんとしている。
 政府−文部省は「不況」「私学に較べて負担が著しく低い国立大学」などを理由に今年度入学者から学費を月額一万二千円に引き上げ、更に来年度以降も大巾な値上げを行なおうとしているのである。
 この政府−文部省の学費値上げを支える理論が「教育費は社会的には一種の投資だと見ることができるので、その投資の経済的効果のうち当事者個人に帰属するものは当然受益者として負担するのが当然だ。(中央教育審議会答申七一年)といったような「教育投資論」「受益者負担の論理」という一連のブルジョア的理論である。くだいていえば、中卒者より高卒者、高卒者より大卒者の方がいくらかは経済的にも、社会的にも有利な地位におさまれるだろうから、その分を個人に対する「受益部分」として、そのための教育をうける者が「投資」すべきだというのだ。
 だがしかし、大学教育は資本の要請に見合った従順で有能な賃金奴隷をつくりだすものでしかない。従って教育で真に「利益」を受けるのは労働者を搾取−抑圧して利益を得ている資本一家どもであり、それを無理矢理「個人に帰属」する部分と「社会全体に還元される」部分に区別し、企業がその利潤から教育費を負担せず労働者の汗の結晶である賃金から負担させようとするのは、明らかに収奪である。こうした問題の本質を見抜けず、大学教育をうけることによる経済的社会福優位(より高度な技術者、中問管理者であるがために資本家が代償として与えているにすぎない。)を自分達の受益部分などと信じるなら、まさに文字通り資本に忠実な労働者に鍛えあげようつとするブルジョアイデオロギーヘの屈服に他ならない。
 そもそも大学なるものは労働者の血税によって設置され運営されている。即ち労働者からの搾取によって資本家が建てたものであり、(学生が自ら学問を追求する場だとは現実的にはとうてい言うことができない。)学費で再び金を出さなくてはならないというのは明らかに二重収奪である。その上、学費値上げによって、経済的な負担が増大し、大学に来れない者もでてくるという貧困者切り捨ての政策でもある。
 またそれは経済的側面に止まらず、中教審答申、筑波法案に呼応した明らかな教育の反動化攻撃である。
 筑波法案のいう「開かれた大学」とは財界のいう「巨大科学といわれる領域で国内、国際的な科学共同を実現すること」「企業におけるエリートと大学との問の交流を組織的に行うこと」である。こうして大学は中教審路線のもと、財界とゆ着し、資本にとって「合理的な再編が行なわれようとしている。
 岡山大学においても、学費値上げと共に、中教審路線の先駆けとして、学内管理体制の強化が堆し進められている。昨年の交通規制に見られるように、学生の意見を全く無視した一方的な規制。これは学生を管理の対象物としか見てないあらわれである。
 また、一昨年の法文グランドの「日本庭園」化では「動」的な要素であるグランドを学生の手から取り上げ、「静」的な要素である庭園につくりかえたのである。彼らは学生を従順な「物言わぬ」学生を求めているのである。
 私達はこの人民収奪の文教政策を粉砕し、学費値上げを阻止しなければならない。


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