岡山大学新聞再刊1号(通刊236号)1978年4月30日

キャンパスは今・・・

兎に角春は来たけれど

 桜の花が咲き、カエルさんも顔を出し、岡大キャンパスは若々しい新入生によって活気づいている。春も表面的には本格化している。自然現象はそれを確かに物語っているのだが、実は岡大は冬である、と言わざるをえないだろう。それは、「共同性の崩壊」とか「学生運動の沈滞化」「個人主義化」「シラケ、大学」………といった文句に象徴されるものであり、岡大はその典型であるということだ。具体的に挙げれば、例えば大学祭は七六年に実行委員会形成・運営が破綻したということ、「大学祭」自体バザーが主流を占め、大学「祭」の意義・内容が失なわれている。我々学生の意意表示としての学部自治会は次々と機能が停止しているではないか。一昨年三月焼失した北ボックス再建の運動は学生のカを結集しえだろうか。着々と上昇する授業料値上げに対する闘争はくみえただろうか。一昨年からの農薬空中散布、農学部教官による退寮策動、新寮問題、交通規制、改善されぬカリキュラム…。
「祭」のない大学、シラけた大学、従順な岡大生、というイメージはぬぐいきれない。「勝手にしやがれ」もいいが、それじゃああんまりも不人情。しかも決して他人事ではなく、そこを流れる基調はあらゆる形で自分にはね返ってくるだろう。彼と彼、君とセンセ、ポクとアナタの間には”ぴゅーう”と北風さんが吹いているのではないでしょうか。
 こんにちの情況はどこに発生源を見たらよいのか。岡山大学新聞は今こうして困難をのりこえて再刊を勝ち取るに至ったが、かつては情況が変化してゆく中で朋壊していったのである。それと前後して、「大学祭(津島祭)」が「祭」と言えるだけのものを失い、○○闘争は尻つぼみになり、バリケードの学生は、講義室へ戻っていった。団結のスクラムは散っていった。キャンパスは当局と国家権力によって制圧されたのである。仝共闘運動は総括なき敗北をとげた。その総括の作業の段階で、「岡山大学新聞」は極度の質の低下の中で七二年廃刊となったのである。
 以降、七三年に板本教官処分粉砕閲争 教養部バリスト、七五年五月マル青同の寮襲撃と「事件」が起ったが、基本的には岡大生は沈黙を続けた。寮と個々のサークルを除いて。然し結局それも岡大の潮流(後ずさりの)に巻き込まれた形となったし、今もそうであろう。
 岡大のみならず全国の学園で学生のエネルギーを結集した全共闘とは何だったのかを詳しく云々するつもりはない。ただ、そのもたらしたものは非常に大きいと思われるので弱干触れておかねばなるまい。
 岡大の大学闘争は、六八年の学内機動隊乱入によって火がつけられ、全国の学薗闘争、ベトナム反戦、七〇年安保の波と合流しながら大爆発していった。しかし安保の敗北、弾圧のエスカレーション、機動隊 警察権力の大学制圧、大管法の制定、筑波大学の開設といった中で、「自己否定の論理(あらゆる矛盾の原点を自分の日常性に見い出しこれを文革的発想でもって思想性まで高める運動である)」の破産と主体の確立がなしえなかったため、岡大闘争はもろくも崩壊してしまった。
 当時の岡大新聞(七〇年十二月十五日号・第二二六号)に象徴的な文章がある「ぼくは、学生であることはそれ自体で人間としての嫌らしさにつながっているのだと思っている。(紛争)前は互に自分を表に出さずによそよそしい毎日を送り(紛争)中には学生が自分の醜さを教官に反映させ熱狂し、(紛争)後は互に生活が大事だから、忘れたふりをして白々しい関係にもどる。」
 また、本質的にはもろい運動であったにしても、そのもたらしたものは少なくなかった。キャシパスではそれまで幾分かの甘さを含みながら抱いていた「大学の自治」は、大学当局の機動隊導入という行為により幻想であることが暴露された。学生と教官の「信頼感」はふっ飛んだ。政府支配層は学生の政治勢力としての存在を軽視できなくなり、大管法の制定、筑波大学化、廃寮攻撃等を押し進めその支配を固めようとしている。「大学の自治」「学問の自由」「アカデミック」などといった見せかけの衣服ははぎとられて、コンクリートと鉄門むき出しの殺伐とした”大学”が残った。大学はそれ自体がまた資本主義生産関係の中に組み込まれ資本主義経済の要求する人間形成の場であることを改めて確認させたのである。本来、大学というものはそういうものであった。ただ、以前はそこにメロウな霧がかかっていただけであった。
 現在の状況の発生源は、などと大げさに書いてしまったが、結論は出せない。これだけでは到底言い切れない。しかし、本当の課題は「これからどうする」だ。

情勢の中で我々は

 大学がその本性をさらけだして、中教審路線に基づいて財界の要求する人間形成の場としての役割をイカンなく発揮し、大巾学費値上げで著しく貧困者を占め出し、負担を増加させている今、我々の力となりうるのは連帯である。団結である。こちらが止まっていても、支配層の搾取・収奪の攻撃は止まってはくれない。そして今、日本のみならず世界の資本主義諸国は戦後最大の危機の中にあるということが我々の周囲、我々自身にもその影響が及ぼうとしているし、すでに学費に、学内整備計画に、敏感に支配層のあせりが伝わっている。
 日本は「高度経済成長」というポロもうけの時代がはるか昔の物語として忘れ去られ、代って「円高」問題が重大な危機をはらみつつ焦点化している。
 日本の経済成長は朝鮮戦争による「特需景気」という文字通りの「死の商人」として急速に復興を遂げてからというもの、アジアヘの経済侵略と製品輸出で強大化してきた。しかし、資源を持たない工業立国日本は、「石油ショック」のあおりをまともに受け、アジア後進諸国の経済成長、自立化も著しく、次第に不況へと突入していった。今や失業者も百数十万人の高率を示し、倒産件数も増大してきており、深刻な状況へと追いこまれている。日本の苦況脱出をかけた「輸出攻勢」もすさまじい円高記録の前に、赤字覚悟の操業が迫られている。戦後最大の不況は政府の景気刺激策にもかかわらず脱出の見込みがない有様である。せんい、造船をはじめ、鉄鋼、化学へと不況は拡大している。
 こうした経済情勢は財界=資本家支配層を震撼させている。不況脱出、経済成長率年七%は死活問題となりつつあるのだ。政府は需要創出政策をとり、財源をかき集めるために予算の三割以上を「赤字国債」でまかない、増税だとか間接税の強化によって軒なみ人民からの収奪を強化し、教育福祉関係への支出の切りつめ(例えば、国立大授業料の大巾値上げ、憲法では無償のはずの義務載育の教科書有償化など)によって、自らの政策の破産を人民に魂制することで乗り切ろうとしている。
 そして軍事力の強大化である。鉄鋼連盟会長の「こう不景気では戦争でも起きなければどうしようもない」発言などにみられる財界一部の戦争待望論に支えられて、「自衛隊」なる日本の陸・海・空軍は着々と整備され、世界有数の軍事強国となってしまった。「自衛隊違憲」の声は、立法・行政・司法の三権総がかりの攻撃で、むなしくかき消されつつある。軍事費は一割近くを占め、「防衡予算のワクは情況によって変化するものだ」「他国に脅威を与えるような自衝隊でなければいけない」「防衛装備は科学技術の発展に伴って変化する」などというような国会答弁がまかり通っている。モチロン彼らの言う「ボーエイ」と言うのは今の地位はホシイし、そのためにはナントシテモ利益をポーエイせねゃイカン、ブリョクをモタニャイカン、バアイによってはイチカバチカのシンリャクセンソウもカンガエニャイカン、と言う意味で、使う駒は労働者なのであるし。
 更にこうした経済政策・軍事政策を中心に、福田政権は人民の不満・矛盾を天皇制イデオロギーと暴力装置でもって押えつけようとしている。三里塚での「過激派キャンペーン」をバックにした、警察権力に無制限に弾圧を許したあのやり口。ピストルの登場。また昨年八月九日の、無実の部落民石川さんに対する上告棄却という、被差別部落大衆への攻撃。そして注目すべきは今、成立に向けて着々と準備されている刑法改「正」の問題である。
 情勢は急テンポで進展している。岡大もまたその渦中にあることには代りはないわけである。大学政策も再び自民党内で「新大学管理法」設置の策動がある。
 こうした時、岡大新聞は全く新しい手によって再建された。我々は学友に団結を呼びかけていくと共に、新開会と共に歩んでいこうと訴えたい。岡大の春は必ずや来ると信じているゃ ボクとアナタは仲のよいお友達になれることを祈る。


[ BACK ]