今週頭の比婆山紅葉狩りの月曜日の休暇は、
10月11〜13日の鳥取出張の際の休日出勤の分の振替休日。

12日に鳥取県児童生徒地図作品展の審査があったため。
11日は近くの岩井温泉の宿をとった(出張費は赤字)ので、
午後6時までには宿に入らないと。
広島から高速バスで鳥取に向かったが、ちょうど良いバスは、
広島バスセンター9:55発の1本のみ。
それ以降のバスは、鳥取駅着が午後7時過ぎになってしまう。

バスは山陽道を通って、米子道の湯原ICで下り、
蒜山高原の近くや倉吉を通って鳥取駅へ。
晴天だったため、途中蒜山や大山の姿がよく見え、素晴らしかった。
鳥取駅には予定よりだいぶ遅れて、午後3時頃着。
宿に入るまでには若干時間があったので、鳥取城趾のある久松山に登ってみた。
標高263mで、山頂部には鳥取城があった。
典型的な山城で、羽柴秀吉が毛利責めをしている時に、
鳥取城を兵糧責めにしたことで有名である。
中国百名山にも選ばれている。

(鳥取城の歴史話)
鳥取城本丸は標高263mの久松山上にあって、
天正8年(1580)当時は毛利方の城として
山名豊国(山名宗全の直系)が城将として在城していた。
ところが山名豊国が、敵将羽柴秀吉の策略によって秀吉方についたので、
残された家臣は吉川(きっかわ)元春に使者を送って城将の派遣を願い出た結果、
決死の覚悟の石見福光城主・吉川経家が自分の首桶をかついで入城してきた。
秀吉は2万余の兵と12km四方の堅固な柵で城を包囲するとともに、
城方も含めてその地方の米穀類を2倍の値段で買占め「兵糧攻め」を行った。
その結果、城内は「稲かぶを食い、鉄砲で撃たれ息もたえだえの者にむらがり、
手足の関節を切り肉をあさった」と『信長公記』はその地獄の惨状を記している。
これは秀吉の武器を使わない戦略として
「三木の干(ひ)殺し、鳥取の飢 (かつえ)殺し」といわれている。
城将吉川経家は、父経安、長男亀寿丸など宛てに
「一人切腹して諸人の命を助け、吉川一門の名をあげ喜んで死んでいく」
旨の遺言状を書き、天正9年10月25日久松山麓の真教寺において切腹し、
35歳の生涯を終えた。

●コースタイム
西町バス停15:25−県立博物館15:30−登山口15:35
−山頂16:00〜15−登山口(城址公園散策)16:35〜40
−西町バス停16:50

久松山の山麓の城趾部分は公共・文教地区となっており、
県庁、県立博物館、学校、仁風閣などがある。

(仁風閣)
ルネッサンス様式を基調とした木造2階建てで、
明治40年皇太子(のちの大正天皇)の山陰行啓の宿舎として、
旧鳥取藩主の池田氏が建てたもの。
藩政の資料や明治大正時代の民俗資料が展示され、
国の重要文化財に指定されている。
設計は明治の三大宮廷建築家の一人、片山東熊工学博士と言われ、
皇太子に随行した海軍大将東郷平八郎が命名した。

博物館前に城門があり、そこから入城し上を目指す。
ニの丸城跡に赤い鳥居がある。
鳥居を潜り石段を登ってゆくと登山口の標識がある。

出張中なので、背広姿(さすがに上着は脱いだが)、
ビジネス靴、手提げ鞄で登ってしまった。

かなり急な坂ではあるが、特に困難なところもなく登れてしまった。
こんなちいさな山なのに、1合目から9合目まで看板がある。
5合目には「中坂いなり」がある。
あっと言う間に天守楼跡である山頂に立つ。
樹林帯の中で、山頂部まで展望はない。
一部5合目で、若干市街が見える。
山頂からは、北と他西の方向の展望が開け、
鳥取市街の他、砂丘や湖山池なども望むことが出来る。

たまたま常連のおじさんが登っていて、ちょっと話をした。
天気が良く澄み渡っていると、大山がくっきり見えるそうである。
今日は天気が良いので見えるかと思って登ってきたらしいが、
ちょっと霞んで、そこまでの展望はなかった。
山頂に三角点があるはずだが見つからないので聞いてみたら、
数年前までは天守楼跡にあったらしいが、今は無くなってしまったらしい。