『自分は何を求めて大学にやってきたのだろう。入学した頃のあのばくぜんとした期待、大学では高校と違い、自由で充実した生活がおくれるだろう。やりたいことをやり、学びたいことを学ぼう…。 しかし、新しい習慣にも慣れ、目新しい事もなくなった時、自分はやはり以前の自分でしかなかった。毎日毎日の講義。それは一体なんなのだろうか。ほとんどの講義に興味を感じられない。あるものは、教官の世間話ばかり聞かされるし、あるものは、一方的に知識をばらまくだけのように思われた。ほんの一つか二つの興味を感じる講義も他の無数のくだらない(と思われる)講義たちに押し潰されるみたいだ。もはや教室のなかには誰の姿も見えない。そこにあるのは顔をなくしたのっぺらぼう達の集りである。ひとりでいることに耐えられなくなって、自分はサークルへと向った』 入学后二、三か月の学生存在によって対象化された教室〜学生情況である。このような教室情況に強いられて学生存在の一定の部分が<サークル>へむかっているだろう。であるとしたら、<サークル>さらには<学友会>にかかる責任はきわめて重大である。あるいは荷が重すぎるかも知れない。何故なら、もはや教室は単位制の呪縛のもとに創造の基盤たる有機的な人間関係を失ない。珠数つなぎされた仮面たちの奥でひとりひとりはどうしようもなく孤立しており、その孤立の情況をいかにし得るかという間いが否応なく<サークル>〜にもかかってしまっているのである。(むろん<サークル>〜だけではない。ひとりひとりが教室から追いやられて向かおうとするところすべてにこの問いは投げかけられている。)そしてもし<サークル>〜がこのような教室〜学生情況から目をそむけさせ、そこにおける孤立(感)をまぎらわす機能を果たすとしたら、その限りにおいて<サークル>〜は情況にとって負の存在である。 大学祭についても同じことがいえよう。期間的な制約はあるにせよ、<サークル>〜<学友会>よりも人数的にもより多くの学生存在とかかわりをもつが故に、やはり大学祭にかかる貴任は大きい。そして情況にとって負の存在である大学祭ならば、ない方がいい。 七五大学祭基調より
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「大学祭を一切やめてしまったらどうか」という問いかけがかねてよりある。かつて「大学を一切なくしてしまったらどうか。」という問いかけがあった。
あなたにとって二つの問いは同じか違うか。前者の問いに対して答えていこうとすることは、未だ宙づられたままの後者の間いにいかほどか答えていくことになるだろうか…。
「何故、大学祭なの?」
実を言うと<大学祭なんかかどうだっていい>のだ。どんなに見ばえがよくたって、バザーが盛況だって、いろんな催し物が多くたって、それ自体が重要なわけじやない。そんなことは百も承知のあなたは、休みを利用して旅に出る、雀荘に行く…。個々バラバラの情況の中で、個々バラバラに<旅に出>、個々バラパラに<雀荘に行く>ように、個々バラバラに<大学祭をやる>のだとしたら、大学祭なんかどうだっていいのだ。いや、むしろない方がいい。
欲しいのは新たな共同性なのだ。本当の人と人とのつながりを創出していくことなのだ。大学に何らかの意味があるとしたら、それは大学祭がそうした新たな共同性創出の媒介となりうるかどうかにかかっている。
「何故、新たな共同性なの?」
それは、現在すべての人間、自然に開かれた共同性がないからだ。<あなたはわたしであり、わたしはあなたである>という本質的な関係性〜共同性がないからだ。大学キャンパスには学生相互の、学生と教官の間の底知れぬ不信感が漂っている。ではかつては、共同性というものがキャンパスに存在したのか。やはりあった。それは六八年に始まった岡大闘争の契機となった事件が象徴的に物語っている。六八年、岡大キャンパスに機動隊が乱入し、それを糾弾した一名の学生が逮捕、起訴されたことをきっかけとして数千名の大学構成員が起ち上がった。彼らにとって話したことも見たこともなくともその一名の学生は、粉れもなく「仲間」であり、「自分自身の問題」、すなわち「自分の分身」であり、まさしく「大学の自治」そのものであったのだ。そうした学生、教職員を含めたつながりの上にたって大学には自主的な空間が創られようとしていた。しかしそれは国家権力の弾圧と、熾烈化する紛争なかで、自らの身を国の庇護の下にゆだねた教職員の脱落の中で崩壊し、学生は敗北感の漂よう中散っていった。大学の自治・共同体は国家権力のなかに全崩壊したのだ。沈黙が次第にキャンパスを支配していった。学生と教官の問の信頼関係は基本的に失われ、単位という強いられたつながりだけが残った「本質的なつながりのない、孤立の情況がキャンパスに出現したのである。そして現在…。
いつでも人間はひとりだけでは生きられないし、自分の主体性を表わせないことに苦痛を覚える。
人は孤立の情況の中でどのようにふるまおうとするか。
孤立に耐えつつ本質的なつながりを求めて苦闘するか。
それとも、孤立に耐えれず自殺へと走るか。
それとも、その場限りの、あるいは閉ざされた凝似共同性に依拠して自らの孤立感をまぎらわそうとするか。
アナタは今どこにいるのだろうか…。
大学祭実行委員会は情況を切開し、情況の課題を表現しようと基調を書く。
夏休みに合宿などやり…一応必死になって…
そんな基調すら、「大学祭基調」と名付けられただけでもうすでに届かないところにあなたはいないか。
大学祭などどうでもいい、大学など(単位をとって卒業すること以外)どうでもいい。そういうところにあなたはいないか。
実行委員会は言う、<新たな共同性の創出を!>アナタは言う、<そんなことはどうでもいい…。>
だがこの<とどかなさ>、この<どうでもよさ>こそが、わたしとあなたとが共有する情況性だ。
気が遠くなるくらい、アナタとワタシは遠い。
だが、その<遠さ>をこそ共有しているのだとしたら、そこから出発するほかはない。
そう、わたしのいまいる<ここ>から。
そう、あなたのいまいる<そこ>からだ。
絶望への出発を
〜そして〜
絶望からの出発を!!
委員長 | 小宮山 剛 | 学友会総務委員 |
議長 | 土屋 勝 | 〃 |
委員 | 落合 弘 | 〃 |
松永 敏彦 | 〃 | |
板東 興 | 〃 | |
宮家 正弘 | 〃 | |
陰山 英男 | 〃 | |
原 武司 | 〃 | |
名内 哲次 | 北津寮運営委員会 | |
鈴木 泉 | 新聞会 | |
池田 清 | I‐S‐A | |
黒田 伊久男 | 少林寺挙法部 | |
立花 誠治 | 映画研究部 | |
長尾 啓一郎 | 農学生会 | |
武若 智之 | 漫画研究会 | |
奥津 和宏 | 社会科学研究部 | |
猪谷 大輔 | 写真部 | |
田淵 邦男 | 古武道部 | |
巽 信行 | 歴史学研究部 | |
北原 学人 | 共済会学生委員会 | |
近田 紀夫 | 津島変態倶楽部 | |
堀内 秀泰 | 工学部生産2回生 | |
光本 恵子 | 地域間題研究部 | |
坂本 守信 | 〜一○三被告団〜 |